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龍造寺氏と、たまには鍋島氏を語るスレ

1 :人間七七四年:2010/04/20(火) 04:18:41 ID:NfrMKedD
落ちたので立てました。

龍造寺氏について語りましょう。


2 :人間七七四年:2010/04/20(火) 04:33:46 ID:26dkPRRV
九州で下克上らしい下克上を唯一やったのが龍造寺。


3 :人間七七四年:2010/04/20(火) 16:25:07 ID:/i881Bg7
苗字がかっこいい。

4 :人間七七四年:2010/04/21(水) 14:45:51 ID:nAhiR70c
肥前国佐嘉郡小津郷竜造寺村が発祥
この村に竜造寺って寺があったらしい。

5 :人間七七四年:2010/04/21(水) 18:13:12 ID:3zLP/Qjw
竜造寺村って今だと何市に属しているの?

6 :人間七七四年:2010/04/21(水) 22:59:26 ID:nAhiR70c
確か佐賀城の南で現在の地名は本庄町の末次辺りって聞いたけど。

7 :人間七七四年:2010/04/24(土) 12:17:53 ID:E+emMzWO
隆信が大友と戦ったのは佐嘉城周辺なのになぜ今山合戦と云われるんだろか
今山なんか局地戦に過ぎないと思うんだけど

8 :人間七七四年:2010/04/24(土) 13:09:17 ID:8GSPfc79
>>7
鍋島信生の武功マンセーのため

9 :人間七七四年:2010/04/24(土) 20:18:31 ID:E+emMzWO
大友の敵将を討取ったのは龍造寺四天王の一人だった成松信勝だよね

10 :_:2010/04/25(日) 00:33:08 ID:qxfvjLrU
テレ玉見れる人は今すぐ見てくれ。龍造寺隆信特集あいてるw

11 :人間七七四年:2010/04/26(月) 00:13:52 ID:0TstVlvF
なんかスレタイトルよくないな
前スレの方が分かり易くて良かったのに
【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】

12 :人間七七四年:2010/04/26(月) 10:31:25 ID:lHNfIc+h
有馬に負けた割に
島原半島方面は
秀吉に
だいぶ
安堵されたよな


13 :人間七七四年:2010/04/26(月) 11:22:35 ID:Hdo5Y7Ss

龍造寺>>>>龍造寺四天王>>>>>>>>>>>鍋島

14 :人間七七四年:2010/04/27(火) 21:17:42 ID:eSnfX+9H
大友が佐嘉を包囲した時、龍造寺勢は5千人と云われているけど必死の覚悟だったんだろうな
この当時は納富、福地、小河、鍋島、安住、江副、百武、副島、徳島、野田、高岸、石井、
鴨打、成松、小林、土肥、西村などが譜代の家臣だったらしい。

結果は今山合戦で龍造寺勢が勝利を得て大友氏と和睦した。

15 :人間七七四年:2010/04/29(木) 12:53:06 ID:94recri4
>>4
徐福伝説でこの地で竜頭船を造ったのが地名由来じゃなかったか?

16 :人間七七四年:2010/04/30(金) 15:06:23 ID:L56XcUQy
>>15
もう少し詳しく教えてほしい

17 :人間七七四年:2010/04/30(金) 16:50:58 ID:Ck9BSyyQ
>>16
スマン、覚え間違いだった。徐福伝説ではなく大和武尊伝説。戦前の小学校の国定教科書に記載されたそうだ。

記紀の川上尊討伐の話で、大和武尊は多布施川の川沿いの小津江川を遡る江中の島に龍艇を泊め、この島を龍造島と名付けた。
(天皇の乗船する船首には龍の頭の彫刻があり大和武尊も天皇の代理として許されてた)それが現在の佐賀城付近

西に上陸して仮の御殿を建てた地が本所(佐賀市本庄)。龍艇を留めた場所が堀江大明神付近。
小舟に乗り換え上流に進み上陸した場所には蠣殻が沢山あり踏み去られた場所がカキフサ(鍋島町蠣久)

川上尊が親族を集め宴会の際に女装した大和武尊が刺そうとした時、「待て!」と叫んだ場所が(大和町真手)
その後、地元の人達が建福寺に川上尊を祀った

討伐後、大和武尊は南下し森で休憩をとり、15才だった記念にこの場所を十五と(嘉瀬町十五)

残党討伐は弟彦が行ったがその陣屋があった場所が(小城町彦島)
弟彦を川上に乙の明神として崇めたが後に淀姫神社を建てる時、峰の頂上に移した


18 :人間七七四年:2010/04/30(金) 21:07:15 ID:L56XcUQy
>>17
サンクス
「栄の国」の云われ程度の知識しかない。

19 :人間七七四年:2010/05/03(月) 12:05:44 ID:ostpvdn2
その後、日本武尊の供養として行基が開山したのが龍造寺。以前は佐賀西高付近にあったが、
龍造寺八幡宮と共に移転したのが高寺(正式名称が龍造寺)

20 :人間七七四年:2010/05/03(月) 12:09:46 ID:AHUBFuNH
全盛期の龍造寺(お寺ね)はでかかったのかな?

21 :人間七七四年:2010/05/03(月) 13:01:01 ID:7fAqeOtv
高寺に常陸筑波山の龍造寺の寺僧が来て住んだことから起こったものであると
いう説もあるらしいね

22 :人間七七四年:2010/05/04(火) 23:17:42 ID:uj9fGEeA
龍造寺八幡宮はもともと村中城内にあったが鍋島が佐賀城として拡張した時に
現在の場所へ移転してる

23 :人間七七四年:2010/05/05(水) 11:41:56 ID:tNrTQE5b
いずれにしても龍造寺氏が表舞台に出てきたのは家兼の時代からだろ。

24 :人間七七四年:2010/05/10(月) 06:37:44 ID:JvXidhGt
隆信が「残虐非道」と云われているがこれは間違ってる。
よく云われるのが、恩義を忘れて蒲地鎮並を騙し打ちにしたとか、
赤星統家の子供を磔にしたなどだが下克上の時代としては当り前の事と思う。
懲罰された武将
馬場頼周 少弐冬尚と計り龍造寺一族(6名)を殺害した張本人
土橋栄益 鑑兼を推して少弐氏へ内応した(19城将に囲まれ隆信筑後へ逃亡)
小田鎮光 隆信の娘と婚姻したが今山合戦で大友に味方した
高木鑑房 少弐氏武将として最後まで抵抗した
蒲地鎮並 隆信の娘と婚姻したがその後も島津へ内通した
赤星統家 再々の佐賀城呼出しに理由をつけて応じない。

隆信は戦った相手でも降伏した者は許すが、裏切り行為は徹底的に根絶やしにする考えだったんだろ。
しかし他の戦国大名みたいに親兄弟を殺害するような行為は一切していないし
一時少弐方へ内応した叔父鑑兼(家晴の父)さえも許して水ヶ江龍造寺家を相続させている。

25 :人間七七四年:2010/05/18(火) 18:40:58 ID:PzlCiHfc
龍造寺氏の居城「村中城」遺構見つかる。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1635836.article.html
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1636781.article.html
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/172051

これを機に龍造寺氏を再認識してほしいな。

26 :人間七七四年:2010/05/18(火) 21:59:02 ID:cG7l3NHf
村中城は要害というより内政の拠点の意味合いが濃かった?

27 :人間七七四年:2010/05/20(木) 10:05:14 ID:W3GTjlAL
>>26
当時の平城なんて犬夜叉に出てくるような屋敷を武装化した程度でしょ

28 :人間七七四年:2010/05/20(木) 14:01:50 ID:DW6Dbrkk
当時の平城でもそれなりに攻めにくい城はなかったのかな?

29 :人間七七四年:2010/05/20(木) 22:46:26 ID:D0mXPw+y
「佐嘉龍造寺の城、四方の総構を築き、牛島敵繰の土手の松を植う。其役成富甲斐守なり」

天正4年に補強したらしいけど、これによると城外に砦を作ってみたいだね。

30 :人間七七四年:2010/05/20(木) 23:18:19 ID:dtdwICFG
出丸みたいなもんかな。

31 :人間七七四年:2010/05/21(金) 12:06:57 ID:FUF7Qnjs
>>12
筑後を取られたからかわりに島原半島方面をもらった

>>26
当時どこが歩けるか地元民しかわからない深田、湿地に囲まれてたら、十分
要害だと思う。


32 :人間七七四年:2010/05/22(土) 21:49:41 ID:Vb7WVXyI
実際に城一つを攻め落とすのって大変だったろね。
城に近づくまでに地の利を生かした城方の伏兵がどこから攻撃して来るか不安だよね。
それに守る側は決死の覚悟だろうし、攻める側も相当の犠牲の覚悟が必要だったと思うな。

33 :人間七七四年:2010/05/23(日) 15:00:56 ID:osJHOHdT
籠城が必ずしも決死の覚悟だったとは限らんよ。全員死ぬまで戦う籠城なんて
そんなになかったんだから。例えば大友が佐嘉を囲んだときも、大軍に慢心し
てただけじゃなくてそのうち降伏してくるはず、っていう油断もあっただろう。


34 :人間七七四年:2010/05/29(土) 21:48:18 ID:wSB1UUMs
大友が佐嘉城を囲ったのが3月で今山決戦が8月だから6ヶ月間睨み合っていたんだね。
それまでに巨勢あたりで小競り合いはやってたらしいけど。

35 :人間七七四年:2010/05/30(日) 22:43:16 ID:XW/7VLcD
今山合戦に決戦なんて表現は不相応では?

36 :人間七七四年:2010/05/31(月) 01:12:28 ID:U9xpAMAs
まぁ状況は依然として暗いもんだったからね。

37 :【!sengoku】:2010/05/31(月) 21:04:02 ID:NJVbqX4D
確かに決戦と云ったのは間違いだった。

今山で戦ったのは龍造寺も大友もごく一部の軍勢だった訳だからね。

38 :人間七七四年:2010/05/31(月) 22:16:24 ID:TUFiftH7
われらの広辞苑さんによれば、「勝敗を決める戦い」らしいから、
認識次第だな。
軍勢の一部しか戦ってないから決戦とはいえないってことはない。

今山の戦いが勝敗の決め手になったと考えるなら決戦と言えるし、
今山の後も包囲は続いて結局戦前と同じ龍造寺の大友への従属で終
わったという新説(?)に従うなら決戦と言うのはどうかと思う。

39 :人間七七四年:2010/06/01(火) 23:02:49 ID:ZL81WhLu
今山合戦以来、大友は佐嘉の龍造寺に手も足も出せなかったのは事実。
宗麟から隆信に対して度々書状が届いていたが適当にあしらい領地拡大を図っている。

隆信は宗麟と和睦したのは元亀元年10月だがすぐさま大友に加勢した肥前の豪族達の
掃討作戦に出て東肥前19城将は神代、横岳氏を除いて1年で平定したし、抵抗してた神代、
横岳氏さえ数年後には降伏してる。

その間宗麟がやったことは横岳氏に武器、ひょう量を援助したくらいであった。

40 :人間七七四年:2010/06/02(水) 09:17:35 ID:ZSsQan+I
ひょう量

41 :人間七七四年:2010/06/02(水) 23:01:42 ID:rrcKVlVX


42 :人間七七四年:2010/06/02(水) 23:17:59 ID:rrcKVlVX
田代まさしさんが龍造寺の末裔というのは本当の話?佐賀のどの辺の出身?

43 :人間七七四年:2010/06/02(水) 23:53:35 ID:OLozNyjV
田代ってんなら田代出身なんだろ

44 :人間七七四年:2010/06/03(木) 02:19:26 ID:/zdZybgd
隆信は今山後に宗麟に降伏したと数年前の佐賀新聞に載ってたよ

普通に考えたらそうだよな

45 :人間七七四年:2010/06/03(木) 05:19:14 ID:2hBG5Ss1
普通に考えて偉大なる宗麟公が隆信を降伏させたは当たり前だよね

1573年までには西肥前の隆信を虐めていた諸将は偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信に伏しているし、同じく隆信を虐めた北肥前にも隆信は何度も攻撃加えてる
1574年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は北肥前も平定したけど、偉大なる宗麟公の名を騙る不届き者が隆信追討令を発しても筑後諸将は当然の如く誰も動かなかったし
1575年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信は南肥前に執拗に攻撃を加えているし、筑後諸将も偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信の傘下に治まりつつあったし
1576年には偉大なる宗麟公の庇護下にいる隆信が肥前・筑後諸将の過半をその傘下に組み込んだしね

偉大なる宗麟公の武威は西海に轟きまくりだよね

46 :人間七七四年:2010/06/03(木) 08:15:41 ID:5QWG7NzI
鉄砲の数は

大友 > 龍造寺

ではなかったか?

47 :人間七七四年:2010/06/03(木) 09:59:15 ID:+J3cytcZ
龍造寺の鉄砲は8000丁って噂だが
大友は更に上をいくのか?
しかも耳川の段階で既にフランキ砲もあるし
硝石の関係で鉄砲のフル運用は出来ないにしても凄くないか?
だって秀吉の九州征伐時でも10000丁って話だし
九州連合軍とか作ってれば天下統一出来そうだ。

48 :人間七七四年:2010/06/03(木) 10:42:52 ID:Q8Cm0HUh
今山のあと、降伏までどれくらい期間あったっけ?

>>47
貿易港へのアクセスを比べれば、大友の方(府内、博多)が多く持ってても
おかしくはないと思う。

49 :人間七七四年:2010/06/03(木) 11:54:38 ID:GSGYfcoP
>>48
今山合戦が8月19日夜半より20日早朝で、
午後には宗麟に加担した小田鎮光の多久城を落している。

和睦交渉は9月下旬より始まり10月1日成立、
同月3日に高良山の宗麟は豊後へ引き揚げている。

50 :人間七七四年:2010/06/03(木) 20:54:05 ID:/zdZybgd
隆信は何でキリシタンを庇護しなかったんだ?
九州にいてキリシタン弾圧するとかアホだろ
それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?

51 :人間七七四年:2010/06/03(木) 21:43:01 ID:fNBftj0B
坊さんあがりだから、まあしょうがないかと。

苗字も龍造寺だし。

52 :人間七七四年:2010/06/03(木) 23:02:32 ID:/BggWFGb
苗字は関係ないんじゃないかなあ

53 :人間七七四年:2010/06/03(木) 23:08:36 ID:GSGYfcoP
宗麟は佐嘉城攻めを2回行なっている

1回目は永禄12(1569)年
隆信は佐嘉城奪還のち周辺、東肥前の反隆信派を平定して少弐氏が滅亡すると
こんどは西肥前へと勢力を拡大していった。
こうした動きに肥前守護(名目上だが)の宗麟が軍勢を繰り出し佐嘉城攻めを開始した。
その為それまで隆信に従属していた肥前の諸将までが宗麟に味方した為に人質を出し
無条件降伏している。
一方宗麟の方も和議を急いでいたらしいが、この頃筑前へ毛利勢が攻入っている。

2回目が元亀元(1570)年
毛利が尼子との合戦で中国へ軍勢を退いたので再度佐嘉城攻めを開始した。
そして今山合戦だが、隆信の勝利で宗麟に加勢した軍勢は全て地元へ逃げ帰っている。
残ったのは宗麟の直属軍勢のみとなった訳だが、隆信の方から和議の申し出があり
宗麟も喜んだことだろう。

54 :人間七七四年:2010/06/03(木) 23:08:43 ID:6EgJyocn
田代て地区は市内にあるの?

55 :人間七七四年:2010/06/03(木) 23:43:00 ID:6EgJyocn
龍造寺と鍋島は意図的に親類になってるてあまり知られてないのかな?

56 :人間七七四年:2010/06/03(木) 23:43:39 ID:/zdZybgd
今山の前後で戸次鑑連と戦ったんだっけ?

57 :人間七七四年:2010/06/04(金) 00:47:39 ID:xAjEGix6
>>56
前哨戦として4月23日に戸次鑑連と隆信が正面衝突した。
隆信勢は先陣が信昌(直茂)、小川信友、第2陣が納富信景、殿軍が自ら隆信で総勢1500人
場所は鑑連勢(2000人)が布陣してた巨勢から若宮あたりと云う。

状況を云えば、先陣が攻め口へ突入して優位に進めていたが、突然に鑑連本隊(1000人)が
隆信の本隊(500人)へ突入してきた。信昌は本陣の隆信危急の報を受け、直ちに救援に向い
この時信昌と鑑連が直接対決を演じ、双方引き分けとなったが鑑連の作戦勝ちと云えるだろう。
鑑連は足が悪く六尺四角の手興に乗っていたらしい。

58 :人間七七四年:2010/06/04(金) 01:20:53 ID:xAjEGix6
>>50
隆信が敵とする大名(大友・有馬・大村氏など)がたまたまキリシタンであって
直接イエズス会は弾圧してないと思うけど。

大村純忠を平定した時に、隆信に対して家臣が大村領のキリシタンを排除するように
進言したが隆信は「今しばらくは、キリシタンたちに対して、さもない風を装い、
伴天連たちにも表向きには鄭重に対処せよ」と云ったとイエズス会の記録にある。

鉄砲の入手はマカオから日本に来るポルトガルの定航船で、その為にも表立って
キリシタン弾圧はしなかっただろね。

59 :人間七七四年:2010/06/04(金) 01:53:04 ID:xAjEGix6
>>54
あるよ。

>>55
戦国時代の縁組って全て意図的だと思うけど。

60 :人間七七四年:2010/06/04(金) 10:39:10 ID:ZFGgnEID
今山合戦を大まかに現代佐賀の地理に当てはめて考えると。

・大和―神埼―諸富―川副(ほぼ水軍)のラインで大友が佐賀を囲う
・大和―小城のラインで肥前国人衆が佐賀を囲う

・大友筑前衆は三瀬を背に嘉瀬川の東川上に着陣(大和―神埼)
・大友豊後衆は犬童川を前面に着陣(神埼―諸富)
・筑後国人衆は筑後川下流域に分散して着陣(諸富―川副)
・肥前国人衆は嘉瀬川を前面に出して嘉瀬川の東側に着陣(大和―小城)

・大友豊後衆の備はかなり分厚く最前面が巨勢と境原の中間ぐらい? 最後方の総大将宗麟は久留米高良山に着陣
・戦域は大まかに嘉瀬川―城原川間の佐賀平野
・一番の係争地は一番突き出た部分の巨勢川一帯から、諸富―川副・筑後川最下流域

・大友の主戦は筑前衆か? 佐賀若宮辺りまで攻勢をかけたり、一部が豊後衆の前面(巨勢辺りか?)に陣を移したりと大規模に展開している
・筑後衆は包囲線や兵站線の維持確保担当? 水軍衆の動員で撃ち合いもしていて、佐賀側との交戦も多い
・豊後衆は数による前線の押し上げ担当か?
・肥前衆はかなり遠巻きに佐賀を囲って戦闘にはあまり参加せず

・そうして1570年4月〜8月まで競り合いが続くが決着つかず

 8月20日に大友側は(大和―小城)嘉瀬川の戦線、肥前衆も川越えさせて前面に押し出し、総攻撃を掛けようとするも失敗(鍋島によると大和今山に派遣された親貞が討ち取られたため)。
 そうして隆信が小城方面に攻勢を掛けた結果、肥前衆が撤退し嘉瀬川一帯(大和―小城)の包囲線が崩壊。
 これをみた筑後衆も陣払いをし、結果として包囲が完全に解け、ほどなく講和。

 と佐賀平野を南北に流れる幾つかの川で自然と戦線が構築され、今山合戦は川を挟んでの進退が争点で。
4ヶ月にも渡る臨戦状態での長期対陣により、大友側が攻勢限界点へ達したのが終結の主因だったんじゃないのかなと。

61 :人間七七四年:2010/06/04(金) 12:28:00 ID:acinqwFY
>>57
サンクス
戸次勢がえらく少なく感じるけど、単独じゃそんなものだったの?
他の軍勢は応援に来なかったのかな
>>58
でも有馬や大友が龍造寺に鉄砲とか売らないようポルトガルに働きかけたり
しなかったのかしら
>>59
肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
大友への警戒?

62 :人間七七四年:2010/06/04(金) 12:40:29 ID:5B14jDh7
>それでどうやって鉄砲とか手に入れたんだ?
単純にイエズス会が火縄銃関係の流通を握れてなかっただけだと思うよ。
種子島に持ち込んだのだってイエズス会と関わってる人とは限らない。いわゆ
る冒険商人たちにとっては、仮にイエズス会が銃や火薬の供給を禁じる相手が
いたら、絶好の売り先になる。

本願寺だって銃で有名じゃない。銃そのものは国内生産地で賄えたとしても、
火薬は明らかに海外からの輸入でしょう?
フロイス日本史を信じるなら、龍造寺家には戦術を知ってる西洋人が加担して
た可能性まで妄想したくなるね。

63 :人間七七四年:2010/06/04(金) 18:48:15 ID:3FQXxb0U
>>57
あれ?俺が持ってる郷土史には、
隆信本隊は居城の大手、高尾口に出陣。鍋島直茂、信景が先陣として大友軍の先陣、田尻鑑種と交戦。
この時戸次鑑連(2000)が隆信本隊に奇襲。直茂は納富に自分が救援に赴くから納富にこの場を死守してくれと言ったが
倉町信吉は直茂に「今、急に軍を分けると後陣にいる味方の軍勢は先手の兵が敗れたと疑うだろう。
このまま一同で鬨の声を上げ切り込むべき」と進言、
直茂も之に賛同、総勢一斉に進撃し、この奇智に戸次鐘連は家臣に助けられ敗走と書いてあるけどね




64 :人間七七四年:2010/06/04(金) 19:50:56 ID:5B14jDh7
典拠となった書名は明示したほうがいいのでは。
論拠が確認できたほうがいいし。
いちいち書名確認するのもめんどうかな。

65 :人間七七四年:2010/06/04(金) 19:55:51 ID:aYg20J8s
龍造寺はなんで化け猫が取り沙汰される訳?龍造寺と鍋島家は親類で続いてるのに?

66 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:01:15 ID:n58nFUxw
傍流が本家を乗っ取ればそりゃ不穏でしょ。

67 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:03:16 ID:5B14jDh7
次男が家を継いだら長男の息子が恨む可能性は無いか?
まして本家が残ってるのに分家が主流になったら?

隆信の曾孫は自分が龍造寺の正統な跡継ぎだと主張して騒いだ。
それを題材にした創作が流行った。

68 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:12:10 ID:3FQXxb0U
>>64
いや〜おもいっきり地元の名前で〇〇史、多分所有してる処が地元の小学校と佐賀市立図書館だけのような本だから
地元で持ってるのはもう俺ぐらいだろう、だから特定されるのもイヤだから勘弁な。
ただ、地元がこの合戦の地だよ

69 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:20:17 ID:aYg20J8s
そうかな〜?鍋島家は優秀だったんでしょう?だから龍造寺家は補佐になったんじゃないの?鍋島に任せます〜て。化け猫騒動になるほど対立してたの?

70 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:33:54 ID:3FQXxb0U
>>69
龍造寺高房の死に様が凄くて、江戸屋敷で妻を殺し、自分も毒を飲んで自害しようとしたがなかなか死ねず、
毒の回りを早くするため馬に乗って町中を走り回って死んだ。
その後、真夜中になると白装束を纏った隆房の怨霊が馬に乗り佐賀城下を走り回ったとか。
こんな狂気の様見せられたら講談等の格好のネタになるだろうよ

71 :人間七七四年:2010/06/04(金) 20:48:31 ID:aYg20J8s
江戸城で自殺したんだ〜。自殺じゃなくて殺されてたら?もともと、龍造寺家を内紛させて潰しにかかってたなんて説あった気がするけど?違ったらすいません!

72 :人間七七四年:2010/06/04(金) 21:21:46 ID:ZFGgnEID
>肥前衆は積極的じゃ無かったんだね
>これは龍造寺に対する遠慮と捉えるべき?
>大友への警戒?

6/13には佐賀北高の更に北辺りで鍋島が神代と銃撃戦して鍋島が敗退したらしいので
戦った国人は戦ってるし、国人なんて全くもって一枚岩じゃないから政治的な配慮は自分には判断しかねるんだけど

地勢からの推察で良いのなら
東肥前の国人衆は嘉瀬川を越えたくても越えられ無かったんじゃないのかなと

・佐賀平野の表層地質は粘土質で、当時嘉瀬川の河辺は殆ど沼地の様な状態
・嘉瀬川は川幅が大きく、また佐嘉城までに大きな川がない
・佐嘉城近辺の城はクリーク・堀が多く、それを防衛陣地として活用する

この事から渡河に危険が伴うので東肥前の国人衆は積極攻勢に出る事が無かったんじゃないのかなと思ってる

73 :人間七七四年:2010/06/04(金) 21:59:24 ID:ZFGgnEID
間違えた
東じゃなくて西の国人ね

74 :人間七七四年:2010/06/04(金) 22:26:31 ID:xAjEGix6
>佐賀北高の更に北辺り

北の口、長瀬村の南無道具留利

75 :57:2010/06/04(金) 22:59:18 ID:xAjEGix6
>>63
九州治乱記を元ネタにしてるんだが、そちらの郷土史は何が元ネタだろうか。

76 :人間七七四年:2010/06/04(金) 23:24:58 ID:3FQXxb0U
>>75
参考文献の項には関連しそうな物では
佐賀郡誌(佐賀郡教育会)佐賀県史(佐賀県史編纂委員会)佐賀市史(佐賀市役所)
佐賀県郷土教育資料集(佐賀県学務課)肥前叢書(肥前史談会)肥前国史(森錦洲)下村生運実録(第3子、下村利充)



77 :57:2010/06/04(金) 23:39:02 ID:xAjEGix6
県郡市史などは全て転載だから元となる資料があると思うけどね

例えば佐賀だったら「直茂公譜」とか「北肥戦誌」など

78 :人間七七四年:2010/06/04(金) 23:57:41 ID:3FQXxb0U
>>77
>>63は「九州軍記の一節を記す〜」と書かれてるから、九州軍記から転載された物だろう


79 :57:2010/06/05(土) 00:22:20 ID:CrsiAtKt
>>78
サンクス

80 :人間七七四年:2010/06/05(土) 01:08:35 ID:j4/EsxFT
>>50
天正時代頃の龍造寺城付近の地図に南蛮寺と記載箇所があるから領内でもキリスト布教は許されたはず

81 :人間七七四年:2010/06/05(土) 01:08:58 ID:Jr4GhmEt
>>69
一部(もともと龍造寺の傍流で、鍋島に変わっても厚遇が約束されたのだろう)
は「任せます〜」に同意したらしいが、伯庵は隆信の直系を自認してて、「本
来なら自分が大名になるはずだった」「乗っ取られた」と主張した。
だけど少数派で、他の龍造寺一族は鍋島(現状)を支持した。

>>71
伯庵は龍造寺の正統な後継者だと主張してたから、鍋島を潰そうとしたわけ
じゃない。理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。
自殺直前はただ恨みで動いてたかもしれないけどね。

82 :人間七七四年:2010/06/05(土) 11:52:19 ID:A703+Bvt
>理想は穏当に鍋島の地位を返上させるつもりだった。

鍋島側がウンと言っても、幕府が認めないでしょ。


83 :人間七七四年:2010/06/05(土) 12:36:40 ID:CrsiAtKt
>>60
佐嘉城の隆信が決めた守備体系を云えば

東口大手方面へ鍋島信房、信昌兄弟と小川信安の部隊
北方川上口方面は龍造寺家就と納富信景、広橋一祐軒の部隊
有馬義純を主力とする西肥前勢には龍造寺信周と龍造寺鑑兼の部隊
南の海岸から来る敵には龍造寺長信と龍造寺長信の部隊

しかし総勢5000人では6万の大友軍には勝ち目はなく四面楚歌の様相

大友親貞が今山に布陣し、佐嘉城総攻撃が8月20日との情報が城内に伝わると、
隆信は武将を集めて軍議を開いた。
「成松信勝の報告によれば、大友勢は明日を期して城攻めを始めるらしい。
そこで篭城死守するか、先んじて討って出るかの戦法は二つのみ、
皆の意見を聞きたい」と切り出した。

84 :人間七七四年:2010/06/05(土) 17:00:15 ID:ar2l0B+G
総勢8万で内佐嘉城を囲んでたのは3万じゃなかった?
他は筑後にいたんじゃないの

85 :人間七七四年:2010/06/05(土) 19:20:00 ID:CrsiAtKt
肥陽軍記では総勢6万、九州治乱記には総勢8万(包囲軍3万)と記してあるね。

今山合戦当日に隆信軍が隈部親永、城親冬などを生捕ってるから肥後勢は今山に
布陣していたんだろうね。それから筑後の五條鎮定も同様に生捕りされてるね。
田尻鑑種の水軍を除いて、肥後・筑後勢は殆ど豊州三老の指揮下に入って最前線に
いたんじゃないかな。

筑後に残っていたのは高良山の宗麟を警護する旗本程度だったと思うけど。

86 :人間七七四年:2010/06/05(土) 20:29:09 ID:6UwqWpJ1
佐賀は龍造寺の子孫だらけ?

87 :人間七七四年:2010/06/05(土) 20:45:53 ID:6UwqWpJ1
>>59 田代地区には田代姓があるかな? どういった所?

88 :人間七七四年:2010/06/06(日) 08:03:44 ID:fMxg2Kn+
レス内容から察するに鍋島氏の子孫やその家臣の子孫などゆかりある人々がレスしてる気がする…

89 :人間七七四年:2010/06/06(日) 14:02:09 ID:7EFqqUMZ
>>87
佐賀城の東付近。佐賀市外地からちょっと外れた普通の住宅地。どういった所ってどのようなレス期待してるのだ?
田代家は竜造寺嫡流、村中竜造寺第17代当主、龍造寺胤久の出。
田代まさしは祖父、父親、本人も佐賀市出身

無論、ただの偶然かもしれんよ


90 :人間七七四年:2010/06/06(日) 16:22:01 ID:Zdjb9XnN
>>82
幕府が認めるかどうかと本人の理想は関係ないだろう?
むしろ幕府が認めないから理想が理想でしかないんだよ。

91 :人間七七四年:2010/06/06(日) 16:38:56 ID:85WSZnIy
佐賀城より西方へ1kmほど離れた付近が西田代町で本行寺などがある。
本行寺は与賀龍造寺家の菩提寺で宗家14代の胤家の墓がある。そのほかにも江藤新平
成富茂安などの墓もある。
この付近は与賀龍造寺家の住いだった西の館があったと云われている。

西田代町は国道の為南北に分断されているが一歩奥へ入れば閑静な住宅地。

92 :人間七七四年:2010/06/06(日) 21:18:46 ID:ygfUsIC0
大村純忠の小説読んでたら、有馬仙岩が東肥前を攻めた際
龍造寺勢が迎撃の構えを見せているのを知って引き返したって書いてたがこれマジ?

93 :人間七七四年:2010/06/06(日) 23:40:01 ID:85WSZnIy
有馬仙岩(晴純)と云えば晴信の祖父だよね。

天文14(1545)年
有馬仙岩は少弐冬尚の要請にて東肥前19城将と共に龍造寺水ヶ江城を攻め、
家兼を筑後へ追い払ったが、二ヵ月後に逆襲を受け撤退してるがこのことだろうか。

94 :人間七七四年:2010/06/06(日) 23:43:55 ID:4LdjYPLr
その田代家はまだ、市内にあるのでしょうか?田代家は鍋島家の家臣でどういった扱いだったとか分からないですか?

95 :人間七七四年:2010/06/07(月) 01:36:20 ID:eCAbhOUi
>>93
いやもっと前だと思う

96 :人間七七四年:2010/06/07(月) 10:05:01 ID:xXYUKC2F
フジテレビの田代なんとかという女子アナは先祖がここの出身ではなかったか。

97 :人間七七四年:2010/06/07(月) 10:31:14 ID:ipj5NKtU
昨日、陸上の日本選手権に江里口って選手が出てたな
やっぱり縁者なのかな?

98 :人間七七四年:2010/06/07(月) 21:17:14 ID:H9/ouTzr
田代地区、西田代地区は代々、武家が多く住んでいた地区なんですか?
その辺りには、縁者の方々が今でも住んでいらっしゃる?もう、それらしき面影は残していない景色でしょうか?

99 :人間七七四年:2010/06/08(火) 00:08:10 ID:fJbK0ont
>>98
佐嘉城下古図
ttp://www.mapshop.co.jp/cgi-bin/mapshop/shop/prod_view.pl?_PIDList=M99901JS0605

佐嘉城西方堀端(地図では下方)のすぐ下に小さな堀がある場所が本行寺で西田代周辺となる。
今では本行寺を除いて面影は残っていないと思う。

100 :人間七七四年:2010/06/08(火) 12:35:56 ID:UulX7Q7w
なんでそんなに現状を知りたがるんだろう。ストーキングでもする気か?

101 :人間七七四年:2010/06/08(火) 21:21:25 ID:F7z3OMrP
縁者です、と言っても薄い繋がりだけど。ストーキングではありません、ご安心を!幕末ブームから歴史に興味を持ち、いろいろ調べてる一関です!
小さい頃に化け猫騒動のテレビを見ながら先祖の事と聞いてとても恐ろしかった〜、化け猫ばかりでなくもっといろいろ取り上げて欲しいね。
化け猫以外は最近知ったよ。

102 :人間七七四年:2010/06/09(水) 00:04:28 ID:gjofTmp5
田代まさしの縁者か。ネットの匿名掲示板で匿名の意見を聞くことを「調べる」
ということに違和感がある。ただ教えてもらうよりお勧めの本とか聞いたほうが
いいよ。ここの人たちが信用できないとは言わないが、匿名の人に嘘つかれても
わかんないじゃん?

103 :人間七七四年:2010/06/09(水) 00:40:32 ID:f4pN2teU
>>98
田代は賀藩唯一の河港があった為、江戸時代以降は町人の町。材木、紺屋、今宿の地名も残ってる。遊郭もあったらしい。
川を挟み西隣の水ヶ江が武士の町でお互いいがみあってた為、横目(じろり)橋という名前の橋が残ってる程

龍造寺胤久の孫で三代藩主鍋島綱茂の祐筆役を勤め「葉隠」を書いたのが田代陣基。
田代の瑞龍寺に墓がある

まあ田代の苗字はこの地に住んでた人が明治以降、苗字にした線も考えられるから
一概に田代姓=龍造寺が先祖で武士って訳でもないかもな

104 :人間七七四年:2010/06/10(木) 12:18:17 ID:b1Zvtjet
ただ、佐賀城下は武家区画と町人区画が明確に別けられてはいたが、町人区画の住人の約半数近くが下級武士。
5〜15石程度では生活出来無いから副業も容認されていて、佐賀藩は江戸時代以降も兵農分離が出来ていなかった特殊な藩

また、初代藩主勝茂の時、50石以下の武士は「手空き槍」と無役扱いとして録を取り上げ一律15石にした為、
武家区画に住める上級武士以外は商売や百姓をやるのが当たり前状態。 ID:F7z3OMrPの先祖が武士だった可能性もあるよ
(ちなみに西田代町は武家区画)




105 :人間七七四年:2010/06/10(木) 21:42:41 ID:6yXPsgd1
武士だよ。
と言っても、薄い繋がりだけど。


106 :人間七七四年:2010/06/10(木) 22:25:56 ID:3ssl7bpc
鍋島直茂が当初考えた自前の城は今の佐嘉城ではなかったんだよね。
もっと西の方で本庄江に近い現在の八戸町あたりだったがこの付近は水害が多く
結果的に龍造寺家の村中城を拡張することに決めたらしい。

107 :人間七七四年:2010/06/11(金) 02:40:36 ID:cTP8uMeb
>>105
田代まさしの縁者か?別にマーシーが龍造寺田代かどうかは解らないだろう
佐賀で田代姓は全然珍しくない

108 :人間七七四年:2010/06/11(金) 11:57:24 ID:yBW5por/
村中も姉川城みたいな感じだったのかな?

109 :人間七七四年:2010/06/11(金) 13:41:47 ID:cTP8uMeb
田代とは平地の田畑の意味。
田代氏が本拠にしてたから田代ではなく田代に居を構えたから地名を苗字にしただけ。
佐賀市で田代の地名なら幾らでもあるだろう。

「大字」のさらに下、例えば佐賀市高木瀬大字東高木”中田代”とかの地名になると郵便番号検索でも無理



110 :人間七七四年:2010/06/11(金) 20:01:26 ID:AopxdlQT
>>108
姉川城跡って周辺は田んぼだらけで戦国当時の雰囲気を残しているよね。
今にも甲冑をまとった武将が出て来そうで多少不気味な感もするけど。

村中と姉川は多少規模は違ってたかもしれんが似ていたんじゃないかな。
周辺はクリークが縦横無尽にあって城の四方には堀を巡らしていたとか。


111 :人間七七四年:2010/06/11(金) 23:23:37 ID:aKN7wjzh
姉川城、行ってみたい。甲冑纏って誰かぶらぶらしてくれんかな?そんなイベント作れば盛り上がりそう?
佐賀のどこに姉川城はあるの?


112 :人間七七四年:2010/06/12(土) 00:02:09 ID:VRqH6U+Z
たぶん貧乏豪族(失礼)の館だっただろうから、きらびやかな甲冑コスプレは場
違いじゃないかな。現状も静かな農村だし。

とりあえずgoogleマップで「葦辺の館」を調べて見てくれ。横武城だけど、佐
嘉平野のクリークの城のイメージは伝わると思う。ちょっと掘ればすぐ水濠に
なる。まわりには今でも曲輪の中に住んでる集落がある。

113 :人間七七四年:2010/06/12(土) 11:30:30 ID:acnUTExq
姉川氏と云えば武家の名門だよね。
東肥前19城将の1人で反龍造寺派だったがのち隆信の重臣となって活躍してる。
朝鮮の役で姉川氏当主が戦死すると鍋島直茂は従兄弟の鍋島道虎(生三)に
姉川氏の名籍と知行を継がせた。
のち鍋島騒動の主人公となった伯庵は幼年期を生三のもとで育ったと云われている。
姉川鍋島家は代々鍋島本藩の家老職を務め知行高は5000石だったらしい。


114 :人間七七四年:2010/06/12(土) 18:34:24 ID:iEyXH9jv
>>111
アスカの地上絵と同じように航空写真では凄く壮大に写ってるが
実際に行ったら堀以外遺構らしきものが無い(小さな神社がある程度)
ただ田んぼと堀があるだけで「これ?」ってなると思う。過度な期待はしないほうがいい。
石垣の一部でもあればそれっぽくもなるだろうが、、、

115 :人間七七四年:2010/06/12(土) 18:57:03 ID:VRqH6U+Z
石垣がないと城じゃない、って人にはわからないだろうね。石垣なんてもとも
となかっただろうし、もっとよく遺ってたとしてもかきあげた土居くらいじゃ
なかろうか。
水濠がある、曲輪の配置が想像できる、ってだけで城跡としては十分。

116 :人間七七四年:2010/06/12(土) 20:50:57 ID:f7URSo9V
そんなのて、他にも残っているの?遥か昔の人が見た景色と今の景色が余り変わらないとかある?行ってみたい。そこら辺りの事を書いた本とかある?

117 :人間七七四年:2010/06/12(土) 22:04:01 ID:f7URSo9V
103>>龍造寺胤久の孫は家就じゃない?

118 :人間七七四年:2010/06/12(土) 22:36:26 ID:acnUTExq
直鳥城も姉川と似た感じだね。少し護岸工事をしてるけど。

>>117
田代陣基が胤久の孫とは知らんかったけど、家就は違うよ。

胤久−−胤栄−−隆信
胤門−−家就

119 :人間七七四年:2010/06/13(日) 00:36:29 ID:1kysfs/f
>>117
当時は一夫多妻制だから本妻の正室の子だけではなく側室の子も含めると十数人いるのが普通。
田代陣基は竜造寺胤久の孫、田代宗澄の子だから曾孫だね

120 :人間七七四年:2010/06/13(日) 11:39:23 ID:1kysfs/f
本家を継ぐ長男意外は分家を立てるが戦国期以前の場合、苗字がそのままのケースと知行地名を苗字にするケースがある。
田代家が龍造寺を名乗らなず、藩政以降も家老クラスに成って無い事を考えると側室の出ではないだろうか


121 :人間七七四年:2010/06/14(月) 23:34:13 ID:lLTsf0my
鍋島氏と鍋島という土地の関係は?

122 :人間七七四年:2010/06/15(火) 00:50:01 ID:zf6U3FbV

【世界の】鍋島直茂・勝茂スッドレ【葉隠】

123 :人間七七四年:2010/06/15(火) 18:16:31 ID:bxzwmKlM
佐賀で出版された図説本読んでたら、以下の記述があった

・後藤家信が蔚山の清正救援を主張した
・それが基で二人は親交を深め、清正は何度も武雄を訪れ家信と狩猟をしたり、
病身の家信を見舞ったりしている
・清正は隆信を尊敬していて家信に寺の建立を勧めた

これマジ?
たかが小禄の陪臣如きが軍議の場で発言権があったと思えないし、
清正が対等に付き合うとも思えないんだけど

124 :人間七七四年:2010/06/15(火) 19:01:18 ID:PU0xo3zS
本当だったら面白いね。清正が直茂を尊敬してたってのは読んだことあるが。

125 :人間七七四年:2010/06/15(火) 19:02:26 ID:8zCHEYyL
>>123
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%B6%E4%BF%A1
これ読むと後藤家信は小禄の陪臣じゃないな

126 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/06/15(火) 21:48:11 ID:WtGQlFHq
見事なまでの分家だな。

127 :人間七七四年:2010/06/15(火) 23:25:38 ID:zf6U3FbV
>>123
家信が病に伏したとき、清正は虚無僧に化け、家来を一人連れて見舞ったと云う。
藩主が虚無僧に化け、他藩に忍び込むなんて史実とは思えないが清正らしい伝説だね。

128 :人間七七四年:2010/06/16(水) 11:19:23 ID:UBQWvirf
この前武雄のエポカルで戦国時代に関する出し物があったらしいが、そんなかにも詳しいこととか展示してあったのだろうか

129 :人間七七四年:2010/06/16(水) 18:10:53 ID:rTrFPQWG
じゅ、19万石!?と思ったら小数点間違いか。

130 :人間七七四年:2010/06/16(水) 18:36:28 ID:uVSfxyca
武雄のエポカルて初めて聞く、何?

131 :人間七七四年:2010/06/16(水) 19:33:27 ID:rTrFPQWG
「エポカル武雄」らしいwwwまったく地方自治体の命名センスはwww

ttp://www.epochal.city.takeo.lg.jp/

132 :人間七七四年:2010/06/16(水) 19:48:50 ID:7l0iQO4b
前スレ【肥前】龍造寺氏を語るスレ【佐賀】で見学した感じをレスくれたような

133 :人間七七四年:2010/06/17(木) 21:56:52 ID:ZiJrkTTG
兄の江上家種は朝鮮で少弐の怨霊によって狂死したってほんとだろか。
家種と云えば鎧を二着まとって戦場を駆け回った剛の者だよね。

134 :人間七七四年:2010/06/17(木) 23:05:38 ID:GvccBgrB
>>131

これは痛い。

135 :人間七七四年:2010/06/17(木) 23:08:24 ID:Z0zniofe
ヽ(`Д´)ノ

136 :人間七七四年:2010/06/18(金) 20:08:26 ID:EWRW8lNa
>>135
市長乙

137 :人間七七四年:2010/06/26(土) 01:55:53 ID:d8/P6XDF
龍造寺一族の知行地
与賀系
家親50,000石 信季1,900石 信門1,800石 鎮家1,000石 信親770石 信明770石
村中系
家就3,850石 家直2,000石 家久1,200石 信氏1,000石 光則1,000石 信貞1,000石 信時1,000石
水ヶ江系
家晴15,700石 長信8,700石 信周5,000石 康房3,000石 信純620石 家俊500石 惟明500石

一族、家臣を除いて隆信の直轄知行ってどのくらいだったんかな。

138 :人間七七四年:2010/06/26(土) 08:19:23 ID:hZC/xd0X
ちなみに上はいつの話?

139 :人間七七四年:2010/06/26(土) 21:58:10 ID:d8/P6XDF
天正8年頃だから柳川の蒲池氏を殺害する前年になるね。

「隆信公領地配分表」から龍造寺一門を抜粋したけど、当時は知行地を「町」で
表しているので「石」に換算してみた。

140 :人間七七四年:2010/07/02(金) 23:17:37 ID:Vcfd+5D3
神代勝利って強かったんだね
けっこう隆信も負けてるし

141 :人間七七四年:2010/07/03(土) 08:20:36 ID:r6aGCE8G
長良の代にも高木町とかそこらへんまで抑えてる。家良の代にも神代衆は
活躍してるし、神代家自体がなかなかの強勢だったと言えるね。

142 :人間七七四年:2010/07/03(土) 10:28:34 ID:rXsoZwoW
神代家累代の御霊屋は、後世に鍋島勝茂の娘によって建てられたものだけど
一豪族の墓としては驚くようなモノだよね
神代氏の力が想像できるんじゃないかなと思う
自分は、高伝寺の鍋島、龍造寺家の墓よりも感動したよ

143 :人間七七四年:2010/07/03(土) 19:36:29 ID:AeC6aVri
神代家の強さの理由は?

144 :人間七七四年:2010/07/03(土) 22:52:54 ID:CgN6pWAd
一ヶ月ほど前勝利の墓目指して行ったけどダム工事で近寄れなかったよ。

>>143
神代氏の領内はほとんど山岳地帯だから守り易い。
反対に敵方から見ると山岳合戦は不慣れで攻めにくかっただろうね。
神代勢がどこから飛び出してくるかわかんない状況?

145 :人間七七四年:2010/07/04(日) 09:24:02 ID:EAE40zsE
>>142
勝茂の娘が作らせたなら、一豪族のものではないのでは?
近世大名佐賀鍋島家の重臣(一門?)の御霊屋ってことだろ?

146 :人間七七四年:2010/07/04(日) 10:49:54 ID:WG2ne4g1
石高が同等の龍造寺嫡流村田家の墓や、倍以上の石高の多久家等の墓と比べると
分かりやすいんじゃないかな
確か、御霊屋がある小高い山も人工の山だったような気がする(記憶違いかもしれないけど)
実際に行って見てみるといいよ 久保泉の白髭神社近くだから↓
http://map.yahoo.co.jp/pl?type=scroll&lat=33.33253167690076&lon=130.32334439169966&z=15&mode=map&pointer=on&datum=wgs&fa=ks&home=on&hlat=33.312060962084&hlon=130.33623600602&layout=&ei=utf-8&p=


147 :人間七七四年:2010/07/04(日) 21:55:59 ID:/K+EZpuh
>>145
神代家は鍋島家の親類だね。

それにしても龍造寺と神代は家兼が馬場頼周の騙し討ち(1545年)に始まって
神代氏が龍造寺氏から養子を貰う(1579年)まで34年間も戦い続けてたとは。

148 :人間七七四年:2010/07/05(月) 06:37:06 ID:JCjVet58
そんだけ背振山地が要害の地だったってことかいな

149 :人間七七四年:2010/07/05(月) 10:58:29 ID:MbLWIDMa
神代勝利は龍造寺隆信から「長年の決着を付けるため正々堂々と平地で勝負しろ」と挑発の手紙送られて
ノコノコ出陣して味方側に内応者がいるのにも気づかず大敗してるから(川上の戦い)山岳ゲリラ戦は得意だったが
平地戦、計略、謀略の類は得意じゃなかったのだろうな

150 :人間七七四年:2010/07/05(月) 16:19:39 ID:ObSSGlcu
>>146
名義上一門扱いの別家と、実際血のつながりがある別家、だから後者が優遇
される部分もあるかもしれない。
石高と家格は正比例しないものだし。

>>147
和睦は勝利が死んだ65年くらいじゃなかった?養嗣子を迎えるのはもう一段
階先だ。

>>148
兵の足腰に差があったかもしれない。龍造寺はひたすら低地で伸びた勢力だ
から。

151 :人間七七四年:2010/07/05(月) 19:45:45 ID:Cn561zRd
>>149
隆信はその前の山岳でやった鉄布峠合戦で痛い目に合ってるからね。

>>150
隆信と勝利は川上合戦(1561)のち長良の娘初菊と隆信三男(鶴仁王のち後藤家信)の
婚約で和睦(1562)したけど、勝利が病死(1565)し、さらに婚約者の初菊が死ぬと
隆信が突然神代領へ攻め込んでいる。
長良は一旦筑前へ逃亡したが勢力を盛り返し(1566)逆に佐賀郡北村・五領・高木・
渕・藤木・三溝郷あたりまで攻めた。
その後も今山合戦(1570)をはさみ睨み合いは続いたが、その後長良が龍造寺から
養嗣子(小川信俊三男のち家良)を貰うことで最終的に決着(1579)したらしい。

152 :人間七七四年:2010/07/05(月) 23:29:28 ID:ObSSGlcu
>>151
詳しくサンクス。

佐嘉城包囲を今山合戦だけに集約するのはどうなんだろう。今山に詰めてたの
は肥後だか筑後だかの衆でしょう?

153 :人間七七四年:2010/07/06(火) 23:49:55 ID:lzxsUhaE
勝敗を決した戦いだったから致し方ないな。

そもそもが前年の佐嘉城攻めで隆信が降伏した時に大友への人質として
秀島家周を差し出したがこともあろうに逃げ帰ってきた。
それで宗麟が激怒して再度佐嘉城攻めとなったという。

154 :人間七七四年:2010/07/08(木) 09:18:16 ID:shckbjoz
>>153
それでも今山合戦という言葉で表される戦いがあって、そこに神代は関わって
ないんだから。

155 :人間七七四年:2010/07/08(木) 21:02:07 ID:FsVMGNYI
今山合戦で最大の被害を受けたのが神代勢じゃないかな。
神代勢は今山大願寺原に布陣してたが、鍋島、納富を始め龍造寺勢に攻められて
軍奉行の古川佐渡守ほか三瀬、名尾、杠、川浪等の主たる武将が戦死して
長良自身は命からがら逃げたらしいよ。
大願寺原では神代勢を含む2千人の大友勢が戦死したと云われているしね。

156 :人間七七四年:2010/07/09(金) 14:08:04 ID:ZSxSKRkv
戦国東肥前スレの方がよかったかもな

157 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:29:37 ID:VoPUdPev
剛忠(家兼)の遺言
「水ケ江の惣領職家門が跡は、子の鑑兼襲ぐべし。家純が跡並びに剛忠の隠居分は
周家が次男慶法師丸(信周)に与え、宝琳院の中納言(隆信)は性儻にして大志あり、
向後当家を興さん者は渠なり、時機を見て還俗せしめよ」

隆信は剛忠の遺言で後継者となったと云われているが実際はどうなんだろか。

158 :人間七七四年:2010/07/14(水) 12:28:09 ID:tlJf5afE
成富兵庫の偉業を解説 信玄流と清正流を併用

 岸原さんは、水の流れを変える「野越し」や不連続堤防の「霞(かすみ)堤」など
洪水エネルギーを減らすために成富兵庫が採用した技術について説明。
「城原川の左岸は加藤清正流、右岸は武田信玄流。佐賀の地形を見極め、独特のシステムを
作り上げた」と評価した。
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.1680289.article.html

159 :人間七七四年:2010/07/17(土) 22:51:30 ID:0Yem0pyp
>>113
佐賀市兵庫町掘立(34号線と51号線が分岐する場所)にある
光圓寺住職兼光生幼稚園園長の生三(いくみ)家が鍋島道虎直系の子孫らしい。
以前は伊賀屋駅の南辺りに生三屋敷があったとか

160 :人間七七四年:2010/07/18(日) 17:29:44 ID:MiVnNUQm
>>158
加藤清正流は理解できるが武田信玄流ってのがどうもな。

城原と云えば隆信時代は執行種兼を筆頭とした城原衆だね。
江上家種の配下だったが龍造寺軍団のなかでは抜群に強かったらしい。
のち沖田畷合戰でほとんど戦死したみたいだけど。

>>159
光圓寺が姉川鍋島家の菩提寺だろうか。

161 :人間七七四年:2010/07/20(火) 08:54:14 ID:OHFcmr0n
鍋島道虎、鍋島生三ってどう読むの?実名は生三?

162 :人間七七四年:2010/07/20(火) 14:26:18 ID:q0rdalan
>>161
鍋島道泉が実名。鍋島清久の嫡男清正の嫡男賢純の三男。幼い頃に仏門に入り、高揚庵の住職していた。
正式には生三斉だから「しょうさんさい」→「しょうさん」だと思う「いくみ」は後の読みじゃないかな?

龍造寺隆信の頃から才能は認められて此頃、既に姉川家を転封させ、鍋島生三に旧領を与える計画だったが
生三が還俗するのを拒否。
鍋島直茂の代の時に下村生運からの推薦で還俗するよう指示されるも最初は拒否、数十回使者を送り続けやっと承諾、
鍋島道虎と名乗るもその後も剃髪、入道姿でおしとうしたために鍋島生三の名のほうが有名になった

163 :人間七七四年:2010/07/20(火) 17:20:18 ID:OHFcmr0n
ありがとう、信生からの拝領だから「なりみつ」もありかなぁ、と思ってた。
再三もうしわけないが、「道泉」はなんて読むの?

164 :人間七七四年:2010/07/20(火) 18:04:14 ID:q0rdalan
>>163
当時の通例で法名は音読み、名前は訓読みだから生三「しょうさん」道泉「みちずみ」でいいと思うけど


165 :人間七七四年:2010/07/20(火) 18:35:00 ID:OHFcmr0n
泉はずみか。ありがとう!

166 :人間七七四年:2010/07/22(木) 20:53:07 ID:EnAS2NKz
明日の夜8時、NHKで、鍋島直茂vs島津家久も萌え萌え対決とかいう番組が
あります。多分、九州限定放送だと思います

167 :人間七七四年:2010/07/22(木) 23:05:18 ID:1AtWH+MC
鍋島直茂が島津家久に土下座するのをやるわけだな

168 :人間七七四年:2010/07/23(金) 00:23:12 ID:jgEpjOJ8
誰が考えたんだこんなの
国民から取った金で萌え萌え対決とか頭沸いてんじゃないか

169 :人間七七四年:2010/07/23(金) 11:30:57 ID:7y0sktkZ
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=505-20100723-21-36698

これか、しかし島津家久にスポットというのは凄いな
朝鮮征伐に参加してないので、取り上げやすいのか

170 :人間七七四年:2010/07/23(金) 11:56:02 ID:vyPtSc1x
裏切り武将と裏切られ武将の生き様を史実に基づいて進行してもらいたいな

171 :人間七七四年:2010/07/26(月) 15:42:42 ID:ew7uJFVJ
>>169
鍋島は朝鮮行ってるぞ。旅行したあたりが萌えらしい。

あと、どっちも弟分なのをアピールしてた。

172 :人間七七四年:2010/07/26(月) 22:33:51 ID:5/hJO1oj
いえひさくんじょうきょうにっき

173 :人間七七四年:2010/08/12(木) 11:13:01 ID:x0AwEaf6

スレタイ最悪!!

174 :人間七七四年:2010/08/21(土) 20:21:14 ID:6AhK3VU8
>>168
おまえ国民一般のつもりか

175 :人間七七四年:2010/08/21(土) 21:04:20 ID:VQK5yvKc
竜造寺って宗派は何処でしょうか?

176 :人間七七四年:2010/08/21(土) 21:14:49 ID:o1Bn10x4
>>157
質問の答えを自分で書いてないか?

177 :人間七七四年:2010/08/21(土) 23:57:41 ID:P+zzd9CT
>>174
お前よりはな

178 :人間七七四年:2010/08/22(日) 14:54:39 ID:teRIj3jR
重症www

179 :人間七七四年:2010/08/23(月) 03:46:52 ID:ooF8A4JX
萌え萌え対決とか喜んで観てる奴のが重症だろ
消防でも白けてたのに

180 :人間七七四年:2010/08/23(月) 10:33:10 ID:2sm8+plH
不評に付き終了しますた

181 :人間七七四年:2010/08/23(月) 12:58:52 ID:6IkV+Qxj
見てて普通におもしろかったがね、一月も前の番組に噛み付くのもどうじゃろなと

182 :人間七七四年:2010/08/23(月) 22:27:47 ID:0iqMpUb6
>>175
臨済宗

183 :人間七七四年:2010/08/24(火) 14:34:32 ID:bTl2Lf1q
>>181
それは>>174に言えよ

184 :人間七七四年:2010/08/24(火) 16:45:13 ID:yxJJIQRj
>>181
あれは、実況でわいわいやってこその番組だった。
ひとりでただ視るにはつらいw 

185 :人間七七四年:2010/09/15(水) 23:22:08 ID:PzTo/+pi
保守

186 :人間七七四年:2010/09/16(木) 14:40:00 ID:knQ8ByGj
剛忠を追放した一件はあくまで頼周が画を描いてそれに有馬を引き込んだと思っていたけど、
こないだ読んだ本では有馬の東肥前侵攻がまずあってそれに頼周が便乗した
みたいに書かれていた

187 :人間七七四年:2010/09/17(金) 21:36:10 ID:q03TWsQU
有馬の東肥前侵攻は小城千葉氏の内紛時だったと思う。

188 :人間七七四年:2010/10/02(土) 19:41:31 ID:3utzOn0R
武雄市図書館・歴史資料館で「武雄の中近世城館」展が開催中

住吉城、潮見城、烏帽子山城などの縄張図や城絵図、
大坂夏の陣と戸石合戦(1546年)の布陣図、他具足などが展示してあった。

武雄って城や砦多いんだね。
南北朝の頃から、有馬後藤渋江に至るまで勢力の衝突地帯だったんだな。

189 :人間七七四年:2010/10/02(土) 23:23:29 ID:NdSc5lDl
情報thx、今度帰る予定があるから見に行くか
長崎街道があったわけだし、交通の要所だったんかね
御船山の武雄城と黒髪山の住吉城しか知らんかったなあ

190 :人間七七四年:2010/10/06(水) 22:08:37 ID:iwXyED5V
天正八年の龍造寺勢力を1600年の推定人口で計ってみる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

筑前国122,800・9/15郡=73,680
筑後国104,400・10/10郡
肥前国253,200・11/11郡
肥後国248,100・14/14郡
豊前国97,100・3/8郡=36,413
対馬国5,900
壱岐国9,300
計730,993
73万1千は当時の国内人口の約6%

ついでに
大友
筑前国6/15=49,120
豊後国204,800
計253,920

島津
薩摩国77,700
大隅国52,600
日向国90,200
計220,500

大友所領はほぼ肥前一国と互角で、島津の勢力範囲に至っては肥前一国より3万人も下回る
島津は後年の肥後半国を加えても35万程
龍造寺の本拠地東肥前8郡だけでも18万4千人、龍造寺の動員力がどれ程のものかが分かる

191 :人間七七四年:2010/10/14(木) 17:03:43 ID:1wgN1wZL
佐賀新聞が龍造寺隆信ゆかりの島原ツアーを募集しているけど、
日帰りで6800円は高すぎ
どんだけ豪華な昼飯なんだか……

192 :人間七七四年:2010/10/14(木) 17:06:12 ID:Z0013OkP
>>191
隆信を萌えキャラにするのが先だな

193 :人間七七四年:2010/10/14(木) 20:51:44 ID:XQbqcdfy
クマー

194 :人間七七四年:2010/10/14(木) 23:59:41 ID:k+GCyjYK
だから佐賀には既にまほろちゃんがいると・・・
まぁでも熊と化け猫とそれに悩まされる鍋島みたいなストーリーでキャラクタ作ったら面白そうよね
鍋島さんはどんな動物がよさげね

195 :人間七七四年:2010/10/16(土) 20:21:43 ID:3s6GMio8
今日三養基で成富茂安祭りがあったらしいね
今年生誕450年だとか

196 :人間七七四年:2010/10/16(土) 23:03:08 ID:VeUBHCM7
すんません。
この時代についてはド素人もいいところなんで、ちょっとお聞きしたいです。
ある戦国本読んでたら、戦国大名の鉄砲保有数の比較が載ってて、
龍造寺隆信が9000丁とダントツだったんですが、この数って本当に根拠があるんでしょうか?
根拠となる資料があったとして、それは信用できるものなのでしょうか?

197 :人間七七四年:2010/10/17(日) 01:37:53 ID:1Hij7UwS
九州の種子島銃は有名だし
北九州の方にも、近江堺には及ばないにしても結構な数の鉄砲鍛冶屋がいたような


198 :人間七七四年:2010/10/17(日) 23:38:03 ID:ifs/XTcN
鉄砲持ってても使えたん?
宣教師に嫌われてたんしょ

199 :人間七七四年:2010/10/18(月) 19:16:09 ID:1m24lKzq
肥前高木氏の一族で開港直後の長崎に移住し、貿易で大成功して
長崎でも有力な豪商になっている人物がいるから
輸入品に関しては長崎の高木氏と取引していたんじゃないか?


200 :人間七七四年:2010/10/19(火) 10:46:41 ID:XNqlQJpi
>>198
宣教師と武器商人は別物

201 :人間七七四年:2010/10/19(火) 11:20:58 ID:qV9vfU+I
一緒だよ
フロイス知らんのか

202 :人間七七四年:2010/10/19(火) 19:14:30 ID:GUAMf0S5
一緒じゃねーし。
見分けもつかないとか盲目すぐる

203 :人間七七四年:2010/10/19(火) 23:17:46 ID:wWLU98RN
武器商人との仲介役な宣教師だろ
宣教師がやってた訳じゃない

長崎福岡があるし9000丁あっても不思議じゃないかもね

204 :人間七七四年:2010/10/20(水) 00:58:15 ID:gd+zyvct
いくらなんでも9000丁はありえない数字だな。
そもそもそんなに所持運用できるほどの硝石の貯えがあるとか
どんだけ南蛮貿易で女童を奴隷に落として売りまくって手に入れてんだよって話だしw

大友の場合はキリシタン保護を通じてゴアの提督に硝石や火器の援助を頼んだりしてる。

沖田畷の戦いでの竜造寺軍は鉄砲1000挺に大砲を投入したらしいから
各地に鉄砲の配置はあるだろうがせいぜい3000挺くらいなんじゃね?


鉄砲といえば北条五代記には1510年(永正7年)に唐から渡来し
和泉の堺の見世物としてあったものを買い込んで
北条氏綱が手に入れ、氏康が生産開始したのが始まりって書いてるけどな・・・たぶんいつもの北条の捏造だろうけど。




205 :人間七七四年:2010/10/20(水) 01:28:16 ID:zLaVeX88
>>203
仲介役なら嫌われちゃまずいことに変わりはないな

206 :人間七七四年:2010/10/20(水) 01:58:43 ID:gd+zyvct
嫌われてたって言うか
もともと出家してた僧体だったこともあり隆信が嫌ってた。
だけどキリシタン弾圧してしまうとキリシタンの支部のあるゴアで
いろいろとゴアの提督への讒言を言われた挙句に
ゴア提督のの指示で南蛮貿易に支障が生じるかも知れないから放置してた。
隆信の考えでは、島津を討って九州を支配した暁には
宣教師を弾圧しまくって九州から追放するつもりだった。

島津の例を見れば実際には宣教師を排除してても収益が上がる南蛮貿易を
ポルトガル人商人がやめるわけもないし、
やめたらスペイン人商人やらが代わりに商売するだけ。
中国人経由で南蛮人と商売することまでできるし
当時の支配層は東南アジア海上取引を取り締まることは不可能。

207 :人間七七四年:2010/10/20(水) 04:10:49 ID:eqQaEwSq
宣教師は弾圧してる領主にも
面談を頼んだり、いざ面談が可能になれば珍しい商品を贈り物にして
日本人キリシタン保護や宣教師派遣許可や教会設置などの説得をする立場だから
宣教師の方から領主を拒否することはないよ。
命を奪うぞって島津が脅してる状況で
周囲の日本人達が泣きながら止めても
説得して状況を打開したいって面談に行ってるくらいだからね。


208 :人間七七四年:2010/10/20(水) 06:59:02 ID:enCi2b9l
戦国末期に50万丁あったって言われてるんだから、龍造寺が9000丁持ってたって不思議じゃないよ

弾薬の事を考えても遠く離れた関東の佐竹が3000丁持ってたって事は、国内でも確保出来ていたと考えて良い

209 :人間七七四年:2010/10/20(水) 09:23:25 ID:eqQaEwSq
そもそもその全国50万丁には根拠ないから。
それに佐竹は小規模な金山を多数開発所持してて財力の裏付けもあったから。
中国商人も関東まで直接に船で行き交い貿易してたし。
佐竹の所持した採掘技術ノウハウは凄いもので
秋田へ転封後もわずか4年で院内銀山を発見して江戸期を通じて東洋一の銀山と呼ばれ活況を呈したほど確かなもので、
戦国期において今川、武田、上杉と鉱山開発ノウハウでは劣るものではなかった。
しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…

210 :人間七七四年:2010/10/20(水) 10:14:44 ID:DoUvzq9x
フロイスは隆信を悪魔の仲間とか暴君なんて尊敬しているね

211 :人間七七四年:2010/10/20(水) 19:20:52 ID:lTApKTBc
>>209

> しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…


北条氏康は名将ではあったが、技術革新とか水軍の活用はうまくなかったみたいだね。

212 :人間七七四年:2010/10/21(木) 00:57:13 ID:QtDtaaz0
隆信存命のまま秀吉が九州に乗り込んで来たらどうなってたんだろ

213 :人間七七四年:2010/10/21(木) 03:24:49 ID:CNhYUBko
強勢力にはなびきそうなイメージ

214 :人間七七四年:2010/10/23(土) 01:49:12 ID:8Q0ChEKz
沖田畷で普通に勝った後
筑肥の国人衆を龍造寺家臣として正式に取り込んでいくのが
龍造寺家にとってのベストな選択だろう

あれ以上南下しても旨味なんてないしね

215 :人間七七四年:2010/10/23(土) 20:44:00 ID:eutUDByx
>>204
元寇で使われてたてつはうじゃないのかな?

216 :人間七七四年:2010/10/31(日) 16:16:53 ID:aK5NPFt6
>>215
もののけ姫に出てきた様なヤツじゃない?

217 :人間七七四年:2010/11/11(木) 17:58:06 ID:JlBiClf4
佐賀藩は伊万里焼きでどの位儲けてたんだろうか

218 :人間七七四年:2010/11/11(木) 19:51:39 ID:OL1ydP+F
国内だと瀬戸物というぐらいに、磁器は瀬戸の方が有名だったってことは
国内シェアはそんななかったのかね

219 :人間七七四年:2010/11/11(木) 20:13:06 ID:JlBiClf4
白磁とそれ以外だと需要が微妙に違うんじゃないのかと思ってたけど
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E7%84%BC
によると徐々に瀬戸焼は伊万里焼、というか白磁に国内シェアを奪われていったみたい

220 :人間七七四年:2010/11/12(金) 02:00:29 ID:r9mdAxgI
天保6年に伊万里港から積み出された陶磁器は約31万俵、内海外輸出は4万6千俵
1石=2.5俵換算で12万4千石、1万8.4千石
1俵=60kgとしたら18,600t、2,760t
同重量あたりの陶器と米の価格が等しいのかは知らんけど、輸出量はこのぐらい

221 :人間七七四年:2010/11/26(金) 17:47:38 ID:0o0uqWJL
龍造寺軍は行軍時の素行の悪さを秀吉の近衆から注意されてる
WW2時も佐賀や筑後の人間で編成された龍兵団や菊兵団も風紀が乱れていた事で有名

九州兵の行儀の悪さは伝統なのか?

222 :人間七七四年:2010/12/05(日) 00:36:22 ID:StJo41qR
明日勢福寺城跡で戦国山歩きだってさ
行きたいけど遠いわ

223 :人間七七四年:2010/12/05(日) 14:56:49 ID:NrktKaD8
>>220
内訳のは佐賀藩以外の焼き物
すんません

224 :人間七七四年:2010/12/05(日) 18:44:09 ID:533qgprH
鍋島氏て後醍醐帝に最初に滅ぼされた佐々木清高の子孫を名乗っているんだな

225 :人間七七四年:2010/12/05(日) 21:25:35 ID:RiBErSAV
鍋島ていい加減で模造家系図だけは立派だね

226 :人間七七四年:2010/12/06(月) 01:12:05 ID:Z0NPugUR
立派だよ

227 :人間七七四年:2010/12/06(月) 13:20:21 ID:++VC1zI+
その話題はhttp://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1220009690/
スレのほうがいいのでは?妄想全開の書き込みしてる痛い人がいるけどもう沈静化してるようだし

228 :人間七七四年:2010/12/09(木) 16:48:58 ID:dH21dwXm
この板って鍋島関係者が絶対にレスしてるよな。
やたらかばう書き込み多いし。

229 :人間七七四年:2010/12/09(木) 19:08:06 ID:wL2VY5QI
面白い脳みそをお持ちのようで

230 :人間七七四年:2010/12/11(土) 20:25:46 ID:RED55ojT
龍造寺隆信 統率87 武勇91 知略59 政治42 総合279 戦法・槍衾之三 足軽A 騎馬B 弓隊D 鉄砲A 兵器A 生年1529 没年1584 格付けA 義理10

鍋島直茂 統率90 武勇85 知略91 政治84 総合350 戦法・離間 足軽D 騎馬A 弓隊B 鉄砲A 兵器B 生年1538 没年1618 格付けA 義理44

信長の野望最新作での能力値
隆信は一代の英雄の筈なのにこの差、明らかに差別されている

231 :人間七七四年:2011/01/08(土) 07:00:24 ID:0ERBW86/
沖田畷合戦時に政家の居場所がよく分からないんだけど。
鍋島と山手の陣にいた?それとも佐嘉城で留守番をしてた?。

232 :人間七七四年:2011/01/08(土) 13:23:01 ID:9pYg7dWO
鍋島と一緒に出陣してた。
隆信敗死の報を聞いて鍋島さんと一目散に逃げた

233 :人間七七四年:2011/01/08(土) 23:08:08 ID:vTN1i3sK
討ち死にしなかっただけましじゃない?
当主と跡継ぎと続けざまに討たれちゃ織田家みたいになっちゃうだろうし

234 :人間七七四年:2011/01/09(日) 10:09:47 ID:f31P6s9j
一応、跡継ぎが生き延びたのに
鍋島に実権取られちゃうのが政家の凄いとこ

235 :人間七七四年:2011/01/09(日) 17:59:06 ID:8jc0uehp
政家Wikiには留守番をしてたとあるわ。

236 :人間七七四年:2011/01/09(日) 19:57:48 ID:aCs3t2B9
そりゃ、政家を支持している重臣たちがが沖田畷で全滅したのと、
生き残った有力者がこぞって政家を支持してなかったからだろうな。

特に信周、長信、家晴のビッグ3が不支持表明してたらどうもならん。

237 :人間七七四年:2011/01/09(日) 23:52:01 ID:8jc0uehp
当時信周は一ノ岳、長信は梶峯、家晴は南関に居て沖田畷には参陣してない。
逃げ戻った政家には一族からの風当たりが強かったことだろ。
武雄の家信はノイローゼになってしまったらしい。

238 :人間七七四年:2011/01/10(月) 05:26:49 ID:608c/uRI
>>235
それは間違いだな。修正しとくよ

239 :人間七七四年:2011/01/10(月) 13:00:48 ID:KAvOA993
wikiでこんなこというのはナンセンスかもしれんが、出来れば典拠を示しとくほうがいいかもね

240 :人間七七四年:2011/01/10(月) 23:17:51 ID:eodELfoy
wikiって何処のwiki?戦国関連の代表的なwikiとかあるの?

241 :人間七七四年:2011/01/24(月) 17:27:05 ID:mQrB1axj
龍造寺氏関連の論文を検索してたら
長信が龍造寺の物資を取り仕切っていたって話のを見つけた

242 :人間七七四年:2011/02/02(水) 19:16:07 ID:3zeDNjhk
佐賀の手明槍と足軽の違いは藩からの禄が在るか無いかの違いだけ?

243 :人間七七四年:2011/02/04(金) 13:50:30 ID:wu+Vx45c
>>242

手明槍は途中で待遇の変化があったはず。


変化後は

侍 > 手明槍 > 御徒

だと思った。


244 :人間七七四年:2011/02/04(金) 20:16:12 ID:/7MMi8K9
勉強になります

245 :人間七七四年:2011/02/04(金) 20:34:14 ID:rd3TVPby
手明槍制があるの本藩と蓮池だけなんだよね
龍造寺系の領地には必要なかったのかな

246 :人間七七四年:2011/02/05(土) 11:34:50 ID:RRkCVvT6
蓮池領の大半が龍造寺系からの三部上地だったからね。

247 :人間七七四年:2011/02/08(火) 14:55:07 ID:qS3h1EOD
>>245
龍造寺四家は裕福だから手明槍制は必要なかったんじゃない?


248 :人間七七四年:2011/02/08(火) 20:00:24 ID:20drfCQw
手明槍って隆信時代華々しく活躍した苗字が殆どだね。
分家筋だろか。

249 :人間七七四年:2011/02/08(火) 22:47:25 ID:f+JMpLC+
元は50石クラスだった者も多いから

250 :人間七七四年:2011/02/08(火) 23:01:54 ID:f+JMpLC+
三十俵ニ人扶持(約14石)を武士の平均禄だと考えると50石はかなりの上級。やはり戦国期に活躍した家系筋になるケースが多いだろうね

251 :人間七七四年:2011/02/08(火) 23:36:25 ID:20drfCQw
龍造寺以外に神代、千葉の家臣も一部手明槍にしてるね

252 :人間七七四年:2011/02/09(水) 01:11:40 ID:C67ORMom
>>248
どんな苗字の人達がいるの?

253 :人間七七四年:2011/02/09(水) 01:25:56 ID:8aOBDGrN
>>252
佐賀藩手明鑓(元禄15年)

鍋嶋左大夫与内 中嶋七兵衛組
横尾惣左衛門、北原孫三郎、執行三左衛門、古賀太左衛門、千々岩覚左衛門、
原五郎左衛門、千々岩藤兵衛、大野千兵衛、江里口庄左衛門、千々岩長右衛門

鍋島主水組内 大隈加兵衛組
富永弥六衛、池田弥兵衛、上野利兵衛、前山十郎右衛門、北嶋三左衛門、
牟田十五左衛門、池田藤左衛門、横尾孫助、大渡甚左衛門、成富伊右衛門、
諸岡杢兵衛、堤与市左衛門、犬塚弥次兵衛、横尾内蔵允、田原利左衛門、
田代小左衛門、久保与右衛門、蒲原藤五左衛門、高木代右衛門、本村作助、
田代正右衛門、柿原利右衛門、北原太兵衛、深川幸左衛門、大嶋八郎兵衛、
安住格右衛門、馬渡平左衛門、高木安兵衛

鍋島主水組内 村上孫兵衛組
重松源衛門、山田嘉兵衛、小林源七、野田吉十、小嶋与左衛門、牧口与市、
香田貞兵衛、秀嶋藤右衛門、小嶋次郎兵衛、加々良八郎左衛門、久富善左衛門、
南里六郎左衛門、加々良九五郎、林武左衛門、小林安右衛門、江頭十郎兵衛、
相蒲藤左衛門

石井修理組内 石井小右衛門組
井上嘉兵衛、赤星久右衛門、吉原甚太郎、香田市郎左衛門、北村善左衛門、
杉町孫助、増田左助、志波勘左衛門、副田喜左衛門、堤弥右衛門、嶋五郎助、
古賀利兵衛、嶋清右衛門、藤山藤七兵衛、牛嶋新五郎、鮎川貞右衛門、大塚与助、
執行十郎兵衛、坂井戸兵衛、青柳藤次左衛門、堤善助、東嶋彦左衛門、
増田藤右衛門。

鍋嶋喜左衛門与内 倉町市郎右衛門組
大坪忠左衛門、成冨八兵衛、早田儀左衛門、小川源左衛門、真崎右之助、
平野次郎八、石井久左衛門、久冨貞右衛門、吉田弥五兵衛、香田清兵衛、
俣野久左衛門、牟田部兵衛、永渕九兵衛

254 :人間七七四年:2011/02/09(水) 01:27:53 ID:8aOBDGrN
千葉頼母組内 西五太輔組
光岡清左衛門、光安源次郎、土山与助、渡辺徳右衛門、諸岡喜兵衛、松岡新之丞、
藤瀬源左衛門、馬郡久五郎、古賀市良左衛門、執行太郎左衛門、増田孫左衛門、
灰塚五郎左衛門、小柳伊右衛門、大庭平次兵衛、廉江八十郎、大江新左衛門

鍋嶋庄兵衛与内 川瀬十郎左衛門組
高木久兵衛、増田彦左衛門、立川十之允、大石小兵衛、栗波弥右衛門、
中溝部右衛門、川原千兵衛、野田利右衛門、中村平太輔、江頭孫六、
土屋三五左衛門、中山新次左衛門、梅崎治部右衛門、武冨次兵衛、永田太右衛門、
田尻善左衛門、徳嶋弥左衛門、福田幸左衛門、南里忠左衛門、武冨次六、
岸川弥五右衛門

鍋島靭負組内 諸岡彦右衛門組
副田藤次兵衛、野口武左衛門、犬塚平内、堤三左衛門、上野兵助、野田平蔵、
石田兵左衛門、新郷千兵衛、松永弥太右衛門、小川与兵衛、副島久右衛門、
藤山諒斉、吉原五右衛門、藤野蔓竹、相良九八郎、横尾弥吉郎、空閑三五右衛門、
江口九郎左衛門、江口藤次郎、江口吉左衛門、江口半右衛門、山辺惣右衛門、
江口小左衛門、柳川弥右衛門、原十郎右衛門、百武勘右衛門、牟田嘉左衛門、
宮地甚兵衛、城島六右衛門、吉村源内

中野数馬組内 犬塚武左衛門組
安住二左衛門、井上吉左衛門、藤井福右衛門、諸隈孫三郎、牛島作右衛門、
小出次左衛門、中野真右衛門、福田文蔵、小川茂右衛門、江口武右衛門
古賀権内、成富三右衛門、古川権太夫、無藤助右衛門、三上平八、槙利右衛門、
指山源六、野口甚兵衛、秀島嘉平次、蒲原八右衛門、上瀧久五郎、井上甚九郎

成富九郎兵衛組内 古賀清兵衛組
江越太郎右衛門、田中善次郎、宮地八郎左衛門、福地藤七兵衛、江嶋二兵衛、
江嶋吉兵衛、田口久左衛門、牛嶋利右衛門、中溝源六、藤崎万吉、藍川次郎左衛門、
陣内覚兵衛、海野千右衛門、野副二左衛門、■田六右衛門、大隈藤左衛門

鍋島官左衛門組内 深堀新左衛門組
川副戸右衛門、川副祐右衛門、中西源之允、秀嶋新右衛門、坂井太左衛門、
千布用之助、円城寺権兵衛、田代藤左衛門、江口彦左衛門、仁戸田正左衛門、
赤司市左衛門、堤次郎左衛門、松野喜兵衛、志岐新五右衛門、枝吉清兵衛、
林吉兵衛、杉町牛兵衛、馬渡佐左衛門、執行孫兵衛、伊東二右衛門、古賀与左衛門、
草野藤五左衛門、柴田伝兵衛、堤与兵衛、石井弥右衛門、亀川新右衛門、
相浦五郎右衛門、伊東近右衛門、森戸次左衛門、相浦近左衛門

255 :人間七七四年:2011/02/09(水) 02:10:41 ID:cR68z6WE
こんな名簿をさらっと……
あんた、すごいね

256 :人間七七四年:2011/02/09(水) 07:22:02 ID:wz1259UR
安政年間で手明鑓+足軽が佐賀藩全部で約五千人
手明鑓のリストラだけで五千石分ぐらい浮かしているから、それ以前はもう1.5倍ぐらい手明鑓+足軽の人員は居たと思う

257 :人間七七四年:2011/02/10(木) 09:59:43 ID:49wm4FjB
>>242
手明槍は50石以下の録を一旦召し上げ、一律切米15石としたからちゃんと録はある。
手明槍の意味は手明(手が空いてる)=無役。
江戸時代になると幕府、諸藩は経費削減のため平時にはあまり必要としない無役の武士はリストラされていったが
佐賀藩は極力リストラしない方針を取ったための策。戦国期に活躍した苗字が多いのは
家柄的に解雇するのは忍びないと優先されたから

258 :人間七七四年:2011/02/10(木) 10:20:16 ID:49wm4FjB
手明槍制が佐賀本藩、蓮池藩だけだったのは元龍造寺家臣団の家系筋が多かったせいだろうね。
龍造寺家が御家事情で必要の無い無役の龍造寺家臣を解雇するは仕方がないと納得もするだろうけど
鍋島家の場合はねえ、、、


259 :人間七七四年:2011/02/10(木) 20:46:40 ID:mccUiRx+
隆信時代から小城は直茂、鹿島は信房と殆ど鍋島領だったし必要がなかったんだろうね。

260 :人間七七四年:2011/02/11(金) 11:39:13 ID:xomDMGMO
小城郡の多久方面は長信管轄だったんだろうけど
祇園城破棄後の小城周辺がどういう取り扱いになってたのか

261 :人間七七四年:2011/02/15(火) 00:29:43 ID:c0v7WO71
手明槍の名前まとめた冊子あったよね
あれもらったけどどこやったっけ

262 :人間七七四年:2011/02/15(火) 00:41:17 ID:lr3IHq7/
>>261
寛永五年の分だったら鍋島本藩着到帳に属与として名前が載ってるけど

263 :人間七七四年:2011/02/19(土) 17:17:10 ID:jI1mnhOC
竜造寺の子孫といえば、夢野久作

264 :人間七七四年:2011/02/22(火) 21:18:23.01 ID:3gfHXqak
佐賀城の地下掘ったら龍造寺が見つかるのかな

265 :人間七七四年:2011/02/23(水) 08:00:42.97 ID:/JhJfAis
村中城の改築は今山合戦の後から始めたみたい
さすがに籠城に耐えうる城ぐらい持っておかないとマズいと
佐賀を攻められて痛感したんだろうね

266 :人間七七四年:2011/03/15(火) 00:29:39.43 ID:xu3mvp4l
コンビニとかで戦国関連の雑誌見つけても、龍造寺も鍋島もまったく見ないぜ

267 :人間七七四年:2011/03/22(火) 01:32:22.46 ID:YlFh3yye
ならば自分で書いてだしてやろう
という人間がいないかぎりそのまま

268 :人間七七四年:2011/03/23(水) 01:08:08.78 ID:AUqPwCSm
あと15年くらい待ってくれたら俺がPHPから出す

269 :人間七七四年:2011/03/23(水) 23:40:06.62 ID:BtNP5K/Q
コンビニの雑誌だろ、PHPじゃ駄目だぜ

270 :人間七七四年:2011/03/24(木) 16:17:41.38 ID:gEd3IRp/
>>263

あれ、そうなの?

夢野久作も僧侶ではあるが。

271 :人間七七四年:2011/04/16(土) 17:59:10.42 ID:Et5OxR+X
ttp://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1830
こんなの見つけたんだけど
どこまで真に受けていいのか

272 :人間七七四年:2011/04/20(水) 00:36:08.99 ID:Vg78Ydhc
> 北山より侵入して、東、西、南、佐嘉郡の寺社、民家を悉く焼払ったけれども、当社と新庄村の勝楽寺だけは残され、河上大明神の神殿も焼き払われた。
勝楽寺は今山へ出陣する前に戦勝祈願したとこ

> 河上で佐嘉軍と一戦を交え、佐嘉勢300余名戦死、その後も方々の寺社、家屋を焼打にした。
敵領国に侵入したらまず焼き討ちは常套手段

273 :人間七七四年:2011/04/21(木) 01:21:29.06 ID:08uDGYiN
>>271が言いたかったのはソコじゃないと思うんだけど・・・ワザと?w

274 :人間七七四年:2011/04/21(木) 02:20:17.92 ID:Foq+CpBw
大友吉広なんて知らないから答えようがないもの
吉弘氏の関係者かとは思ったんだけど
呪い関係はこの手の話ならそういうもんだろと割り切るしか

永禄年間には二回大友方による佐賀近辺まで寄せた攻撃があったみたいなんで戦自体はあったんだろうと

275 :人間七七四年:2011/04/22(金) 00:49:27.95 ID:B8vFei+V
永禄年中豊後軍放火神埼郡押寄龍造寺戸次鑑連吉弘鑑種会於神代長良而龍府之北陣塚原與水上臼杵鑑速龍府之東陣干姉村神代長良先駆到三溝鑑連陣高木社鑑理屯長瀬社継之

276 :人間七七四年:2011/04/22(金) 23:11:41.57 ID:6dthqc4H
水上に與するってどういうことだろう
塚原の川上に陣を組んだという話?
あと継之がわからん

277 :人間七七四年:2011/04/24(日) 12:15:12.21 ID:L8ebE5w/
豊後衆爰にて三萬餘騎を三手に分けたり一手は戸次鑑連北へ廻り春日塚原に吉弘鑑理同じく北の方水上山に陣を取る臼杵鑑速東の大手ゝ姉村へ押詰めたり
扨又神代長良は神野三溝大宝まで討入り所々に火を懸け焼拂ふ斯くて陣替の為戸次鑑連は北の方高木八幡社吉弘鑑理は長瀬社に陣を移す

278 :人間七七四年:2011/04/24(日) 13:58:54.73 ID:vw3EXMi/
水上は地名なわけか
多布施口合戦は当にこの時の話だろ

279 :人間七七四年:2011/04/27(水) 02:16:46.56 ID:/+M4V96N
長瀬社ってまだ有るのですか?

280 :人間七七四年:2011/04/27(水) 08:54:11.46 ID:Bzs+Drm1
長瀬天満宮は普通に現存してるよ

281 :人間七七四年:2011/04/28(木) 14:24:22.32 ID:AqNHNTZZ
佐賀城下の長瀬町と長瀬社のあった長瀬は別の場所
長瀬社は高木瀬町大字長瀬の方
というのも高木瀬の長瀬にいた初代忠吉を城下に呼んで住まわたのが長瀬町の由来だそうで

282 :人間七七四年:2011/04/29(金) 01:23:50.59 ID:P4LGcZMG
ありがとう〜、勉強になりました。

283 :人間七七四年:2011/04/29(金) 01:29:23.99 ID:P4LGcZMG
ついでにも一つ質問。淀姫神社もこの長瀬天満も川の傍にあるみたいだけど、そこも昔から?氾濫流されたりしなかったのかな?

284 :人間七七四年:2011/05/18(水) 22:00:07.57 ID:Gowtxdmp
読売新聞朝刊 文化面 戦国武将の実力にあの人の特集が

285 :人間七七四年:2011/05/22(日) 20:58:54.70 ID:laKpGgoA
葉隠物語読んでるんだが、直茂って依怙贔屓ばっかしてんのな

成富兵庫が加藤清正から駆け落ちした姫を奪還した話は痺れたわ

286 :人間七七四年:2011/05/22(日) 22:31:58.55 ID:2sD0nmYg
>>285
面白そうな話なので
もう少し詳しくお願いします

287 :人間七七四年:2011/05/24(火) 18:58:58.98 ID:Ac7hpaHl
>>286
鍋島茂治の娘が夜中に若侍と駆け落ち
その数年後、加藤家の家老の側室になっていることが判明
茂治の家来が連れ戻しに行ったが、本人も加藤家も拒否する

で、成富兵庫の出番となる
大勢の共を連れて熊本入りした兵庫だが清正は仮病を使って会わない
兵庫は慌てず、そのまま居座り物見遊山よろしくあちこちを見て回る
その内、噂が広まり仮病で会わないのは卑怯だという世論に負けた清正は兵庫に会う
そこでも女の引き渡しを渋る清正だが兵庫が朝鮮での借りを持ち出すと一も二もなく陥落
かくして姫は佐賀へ連れ戻されたとさ
そいでばっきゃあ

288 :人間七七四年:2011/05/24(火) 21:21:08.57 ID:pXj2NHrI
鍋島家って後醍醐に討たれた佐々木清高を祖としているんだな

289 :人間七七四年:2011/05/25(水) 14:37:13.17 ID:xZ9xhlId
クマーの首の引き取りを「お断りします」するなんて酷いよナベちゃん

290 :人間七七四年:2011/05/25(水) 21:32:19.95 ID:7UoNBa9x
>>287
これって実話なの?
家老がわざわざ他国に行くのかな

291 :人間七七四年:2011/06/10(金) 02:21:08.62 ID:k1dRSHni
http://www1.axfc.net/uploader/Flash/so/1875.swf
やっつけ仕事な1570〜1579年の龍造寺勢力拡大図

292 :人間七七四年:2011/07/16(土) 00:11:55.65 ID:1mhhLTId
>>289
後ろめたいから顔見たくなかったんだよ

293 :人間七七四年:2011/09/04(日) 06:36:28.34 ID:4dLZxoCc
age

294 :人間七七四年:2011/09/04(日) 10:45:01.88 ID:IlkmeVMD
>>292
首と目があったら祟りで狂死しそうな怖さを感じたのかもな

295 :人間七七四年:2011/09/05(月) 00:31:16.33 ID:6JAlZuqs
鍋に従うのがいやで帰農した者も多かったのだろか

296 :人間七七四年:2011/09/05(月) 05:04:24.17 ID:YgIvo4ld
龍造寺侍やってても飯が食えないって理由が一番大きかったと思う

297 :人間七七四年:2011/09/05(月) 10:00:08.45 ID:IJtMpA9d
別にトップと看板が変わっただけちゃうのん?

298 :人間七七四年:2011/09/05(月) 12:56:29.31 ID:YgIvo4ld
佐賀以外の知行地を喪失している状態で龍造寺をそのまま引き継いでしまうと
隆信の代に肥大化した譜代家臣団もそのままくっついて来るので
龍造寺から鍋島への権力移行期は絶対的に知行地が足りなかった

それで土地がこれ以上増える見込みも無くなった勝茂の代で
家老衆(龍造寺四家含む上級家臣)に対する三部上地(給地一律三割カット)と
下級武士層の家禄没収&無役化で龍造寺家臣系を自主退職に追い込んでいったの
その無役化した譜代家臣団に対する救済処置が手明鑓制

299 :人間七七四年:2011/09/06(火) 23:24:33.71 ID:qc45R4Wx
豊臣秀吉から竜造寺高房への朱印状   天正18年(1590)正月8日
※肥前国竜造寺藤八郎(高房)知行割之事

30,000石 竜造寺藤八郎京賄分(高房)
11,200石 佐嘉にて台所入(高房)
5,000石 竜造寺民部大輔(政家)
14,000石 後藤善次郎(家信)
10,070石 竜造寺六郎次郎(長信)
5,250石 竜造寺阿波守(信周)
19,188石 竜造寺七郎左衛門(家晴)
6,040石 神代二郎(家良)
44,500石 鍋島加賀守信生(直茂)
9,000石 竜造寺伊勢松(勝茂)←江上家種分
80,000石 馬廻分
67,650石 小給人分
合計309,902石

天正15年(1587)島津討伐時の恩賞
鍋島加賀守(直茂)
5,700石-養父半郡
5,000石-高来郡神代

300 :人間七七四年:2011/09/07(水) 02:03:32.13 ID:LwQtcZQv
四天王が健在なら鍋島なんて

301 :人間七七四年:2011/09/07(水) 08:28:15.21 ID:ohP6nCoK
>>299
家種が生きてる間に養子に入った勝茂が江上領分を相続してたんだっけ?

302 :人間七七四年:2011/09/08(木) 19:27:36.99 ID:f/xYAKe7
戦場で殉死まがいの討死するような盲目な人が生き残っても
政治的な活動なんて出来ないだろ

殉死は武士の価値観からすれば美しいんだろうけど
組織の人間としては責任逃れの自殺と大差ない

303 :人間七七四年:2011/09/09(金) 00:44:08.88 ID:gC+/df+S
かといって全員が全員一目散に逃げ出しちゃ、追い討ちかけられて余計殺されるんじゃないの

304 :人間七七四年:2011/09/09(金) 01:44:51.33 ID:lPyzWMiv
遺体の引き取り拒否で後世でクズ扱いみたいにされるのも
あまり賢いとは思えない

305 :人間七七四年:2011/09/09(金) 07:12:19.12 ID:9whva2jS
その逸話の大意は戦って取り返すからワザワザ持ってくるな。という所だろ
それをクズかどうか思うのは受けての感性の問題

訳文だと部分だけ切り抜いてい曲解する訳者の見解が入るからその限りじゃないが

306 :人間七七四年:2011/09/09(金) 07:24:39.54 ID:VR8Rzzjj
生母の義母もいるんだし納得してもらってるんじゃないの?

307 :人間七七四年:2011/09/09(金) 08:20:09.15 ID:Zs7aZw6y
>>305
そんなデタラメは書いてない

308 :人間七七四年:2011/09/09(金) 21:56:43.39 ID:/ASahCmw
>>301
家種は慶長2年(1597)2月に朝鮮役で卒してるので生前に勝茂へ譲った事になる。
実際の知行は10,200石で9,000石を勝茂へ、残り1,200石は隠居分として手元へ残していた。
家種が卒した後に1,200石は実子の江上孫太郎(佐野右京亮茂美)へ800石、残り400石を
江上左近允(勝山大蔵勝種)へ分配された。
存知の通り勝山大蔵はのち伯庵と共に鍋島騒動の立役者となった人物。

309 :人間七七四年:2011/09/10(土) 08:30:46.62 ID:J9HOeR/9
朝鮮役前後における信生の立場を考えると、軍は動かせるけど台所事情には口を挟めない
東肥前連合軍の最高指揮官の域を出ていない印象

そこから軍事の功績で親族会議での発言力を強めていったのだろうなと

310 :人間七七四年:2011/09/12(月) 22:53:15.70 ID:9YKSs8XT
勝山大蔵は父家種の相続分とは別に祖母(隆信の妻)の化粧田も一部貰っており
寛永五年鍋島藩着到帳には1,086石となっている。

311 :sage:2011/09/13(火) 02:58:50.76 ID:N1eBMdwp
戦国時代に興味があるひとにこそ知っておいてほしいカモ

小学生低学年に向かって「まわしたるぞ」と…
始まって1分ほどに何人もの小学生低学年が映っています。
その子たちに向かって「まわしたるぞ」と言っていた模様です。
ttp://www.youtube.com/watch?v=J53DISMjHuc



312 :人間七七四年:2011/10/06(木) 13:00:18.54 ID:roxD5x55
263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/19(土) 17:17:10 ID:jI1mnhOC
竜造寺の子孫といえば、夢野久作


            ↑

           これは事実なのか?スチャラカポクポク
   
 

313 :人間七七四年:2011/10/17(月) 13:25:18.56 ID:ZUYs4MMG
天正11年に安国寺が、
毛利の大幅譲歩による秀吉との和睦の決断を促す書状で、
百姓同然の龍造寺と書いていてワロタw
他の大名については悪口書いてないのに。

314 :人間七七四年:2011/10/18(火) 17:35:24.80 ID:QGHr1v2T
今和睦しないと百姓の秀吉が百姓同然の龍造寺をけしかけて
毛利領を侵犯するかもしれないぞって感じ?

315 :人間七七四年:2011/10/24(月) 23:53:21.88 ID:GRpQQhot
中央の人間とか、大内・陶家の文化をまるまる吸収した大毛利にしてみれば
そりゃあ九州ってだけで田舎モン扱いされるだろうねえw
しかも大名自身がクマーなんだからどんだけだよって話だw

しかしトンデモ学説では当時日本最大の鉄砲保有大名だったって資料もあるくらいで
さすがにそれは大げさだとしても、純粋な軍事力では馬鹿に出来ないだろう




クマー本人は馬鹿だけどね^^

316 :人間七七四年:2011/10/25(火) 08:44:20.93 ID:rXp3516N
フロイスの日本史では、
金ピカ装備で大量の銃を
龍造寺は所持してて
島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。
有馬らは鉄砲は使わず突撃戦法と、
海岸からの砲撃で
隆信の息子らを押しまくったので
隆信が彼らを督戦するために中央から海岸側へ移動したとか。
もともとの作戦では、
隆信は山側へ布陣予定だったが、
柳川にいた信生が、突然に主命を破ってやってきて、
自分が山側に布陣した島津と対陣するので、
隆信は山側でなく
中央を進軍に作戦を
土壇場で捻じ曲げたんだよね。
信生は、わざわざその変更のために柳川から来たわけで、
柳川での調略や外交で、
何らかの勝算が出来ての陣替えだったのだろうか。

317 :人間七七四年:2011/10/25(火) 18:15:55.01 ID:77G4hy4A
>島津はビビりまくり陣の後ろの方に閉じ籠ったって書いてるぜ。

実際にはどういう表現で書いてあるの?

318 :人間七七四年:2011/10/25(火) 19:42:08.16 ID:TsZDbvvC
有馬兵ら味方があまりに少なく
島津兵はこりゃ絶対に敗北確定だわと確信したらしく
兵力・装備が充実している隆信軍を見て色を失い、
互いに顔を見合わせ死の汗を流したとか
鎮痛な面持ちになったとか書いてあるね。

有馬軍が鉄砲の餌食になりそうだから
義久が篭った山へ退却しようとしたが
島津側がそれを許さなかったので
有馬はその山の麓で
地面にうっぷして銃弾を避けてから
肉薄突撃をして戦ったが、
竜造寺は槍兵と槍兵の間からも銃弾をぶっ放してきて
苦戦してたが、海岸からの大砲の支援を受けて盛り返した。
そんでなぜか突然現れた少人数の島津軍の川上に、隆信は味方だと誤解した挙句に殺されたと書いてる。

ちなみにフロイスは日本では盾を使わないと書いてる。

319 :人間七七四年:2011/10/26(水) 00:09:08.82 ID:ORi6wkD+
なんで義久いんの?

320 :人間七七四年:2011/10/26(水) 01:04:03.13 ID:Za1IhatM
どこを斜め読みしたらよいずら?

321 :人間七七四年:2011/10/26(水) 05:39:42.21 ID:CUY64h3I
>>319
島津の主戦は八代に居ただろ
沖田畷合戦は八代の側面にある島原を隆信が潰しに来た戦い

322 :人間七七四年:2011/10/26(水) 08:01:25.78 ID:ORi6wkD+
>>321
文章読む限りでは、義久が籠った山のふもとで戦ったように見えるけど、
隆信は沖田畷の戦いで八代にまで軍を伸ばしてたの?
そんで沖田畷のあたりで討ち取られたの?すげえな

323 :人間七七四年:2011/10/26(水) 08:52:35.02 ID:CUY64h3I
>>318の文章の『その山』は元々陣を敷いていた場所の事だろうね、好意的に解釈すると

あと直前に合志城を政家が落としているので、軍勢の一部が近辺に駐屯したままだったのは十分考えられる
だいたい八代の手前40km付近の話

324 :人間七七四年:2011/10/26(水) 08:57:37.57 ID:+ViNphed
お前らアホだろ。
普通に考えて義久と家久を間違えて書いただけだろ。
鍋島厨は読解力がこれ程無いとは。

325 :人間七七四年:2011/10/26(水) 14:48:34.25 ID:ORi6wkD+
義久と家久間違えるのか、すげぇな
これだからアンチ鍋島は…どこの猫だよ

326 :人間七七四年:2011/10/26(水) 17:44:11.46 ID:X/Qhr5yD
義久が沖田畷にいたと思ってるバカがいると聞いて

327 :人間七七四年:2011/10/26(水) 17:53:12.64 ID:xsMFpwuL
揚げ足を取るしか能がないクズしかおらんのか。
つまらん糞スレ住人だ。

328 :人間七七四年:2011/10/26(水) 18:36:26.71 ID:l5yALOWk
「枝葉末節 揚足取り」
大友、島津がもっとも得意とした戦法でごわす。

329 :人間七七四年:2011/11/01(火) 18:41:50.51 ID:ikTj9v/t
ここでも唐突に川上が隆信の元に現れるとかwww
どう考えても隆信が死んだ理由は鍋島の内通による案内以外考えられんな。

330 :人間七七四年:2011/11/05(土) 17:50:32.71 ID:gR0wke7p
鍋島が裏切る動機は?

331 :人間七七四年:2011/11/05(土) 17:58:55.48 ID:sxdyxd5/
戦国に動機が必要かね?

332 :人間七七四年:2011/11/05(土) 20:00:21.68 ID:5AX4fCer
仮に下克上を狙ってたとしてもこのタイミングはありえんと思うわけだが

それはそれとしてもしその意思があったとして動機を考えるならば
ただひとつ「隆信に呆れ見切りをつけた」だろうなあ
どう考えても沖田畷前の数年の行動は人として疑問符が付くし
そういう家臣の声が、一番人望のあった鍋島を動かした、っていう風になっちまうな

333 :人間七七四年:2011/11/05(土) 20:20:59.40 ID:AnDmCqaR
どう考えてもと言っても事実だけ取り上げたら取り立てて失策してるわけじゃないだろ
酷いって評判だけひとり歩きしてるだけで

334 :人間七七四年:2011/11/05(土) 22:10:14.05 ID:UpGVVV5k
むしろ鍋島が隆信に悪事をやるように誘導してたような…

335 :人間七七四年:2011/11/05(土) 23:19:38.70 ID:lKB1+MEc
蒲池の騙し討ちだってやったのは鍋島だろ

336 :人間七七四年:2011/11/06(日) 00:26:14.37 ID:jWJ3X2Jm
隆信の悪行は同盟国や自勢力下の領主・武将たちへの仕打ちだからな
それも歳を取ってから猜疑心が強くなってそういう傾向が強まった
決して評判のひとり歩きじゃない

そして蒲池の事件は確かに鍋島と計ってという記述をしてる場合が多いが
鍋島は反対したが結局主君の命には逆らえずというのも見たことがある
その辺の真実は分からないが結果的に共犯になるのは間違いないだろう

だが隆信のやり方で配下の叛乱が連発したのに
それを主導したのが鍋島だというのなら当然ながら隆信亡き後の
鍋島に他の家臣が従うはずがない
その辺りの推移を考えても隆信に往年のカリスマが無くなっていたのは明らかであり
隆信亡き後に残された家臣団には鍋島以外に立て直してくれる能力を持った武将は
いないという共通認識があったのは間違いない


337 :人間七七四年:2011/11/06(日) 01:27:54.89 ID:i4OsybC1
叛乱分子の粛清を速攻で済ませる事が出来なかったのが失敗だったな

338 :人間七七四年:2011/11/06(日) 09:21:04.26 ID:7I+cZwYv
隆信と信生の母の慶ァ尼の指示だから仕方が無く
竜造寺家臣団も一時的に信生に家政を任せただけだな。
その基盤の弱さを補うために信生は秀吉政権を味方につけて
家内掌握を図っただけ。
鍋島藩がかなり信生の悪事を隆信の悪事に摩り替えて捏造藩史を
残しているからこそ化け猫伝説まで民間で生まれたんだろうな。

339 :人間七七四年:2011/11/09(水) 23:51:36.79 ID:+bc5eo//

鍋島松茂譜考補に三成らが伊勢から美濃に来て要請を
長島城に備えてた勝茂がいま守ってる野代の陣の守備の代わりがいないから
無理と断わった話が載ってるらしいんだが知ってる?

340 :人間七七四年:2011/11/10(木) 00:48:41.35 ID:kLo5voPJ
松茂って誰?

341 :人間七七四年:2011/11/16(水) 11:55:43.45 ID:6T/GPd3o
鍋島直茂は熱心なキリスト教徒で、
秀吉の命を無視し非常に厚く彼らを保護し匿ったので、
1601年の佐賀城下だけでも200人のキリシタンがいた。

342 :人間七七四年:2011/11/16(水) 14:13:57.55 ID:BAOmLVTx
一方、隆信はキリスト教が大嫌いだが
貿易利潤のために九州統一までは
一時的に虐殺を我慢していた。

343 :人間七七四年:2011/11/16(水) 16:26:27.85 ID:8PlTBSlg
九州統一なんて面倒臭いことをなんで龍造寺がやらなきゃいけないんだよ

344 :人間七七四年:2011/11/17(木) 01:29:19.26 ID:pG80eaMi
信生「価値観の不一致で隆を暗殺した後悔はしてない」

345 :人間七七四年:2011/11/25(金) 15:34:26.87 ID:gc4RCA+N
うむ

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